唐澤 由佳(慶応義塾大学経済学部3年) 2005/12/27
唐澤由佳さんは、慶応義塾大学 1 年生のときから 1 年間、 CE のユースワーカーとして記者たちの活動を支えてくれました。
記者たちにはとても人気がありましたが、慶応義塾大学の留学制度を利用して、 2 年生の夏からアメリカへ渡り、ウィスコンシン州立大学で 1 年間経済を学んで帰国しました。さらに米国での経験をもとに、「 日米学生会議 」に応募し、 2005 年の夏休みにアメリカ人学生 40 名と一緒に貴重な経験をつみました。
その経験を若い CE 記者たちにも伝えて欲しいとの CE の希望で、レクチャーの講師を務めてくれました。
私は慶応義塾大学経済学部に学んでいて金融に興味があり、 NHK の番組が本になった「マネー革命」を読んで、ジョージ・ソロスのような有名な人を初めて知り、留学したいと思った。慶応義塾大学には留学制度があるので、1年生で応募したら運よく合格した。
米国についてから、はじめの 2 週間をシカゴでホームスティをした。シカゴの街は東西南北に分かれていて、それぞれ住んでいる人種が違っていた。北は高級住宅地で、白人や日本人が住む地域、南は黒人が住む地域、西はヒスパニック(メキシコ、ラテン系など)に分かれていた。
私のホストファミリーは私が持参した「地球の歩きかた」に書いてある日本人が行ってはいけない地域の中にあった。黒人のホストファザーと白人のホストマザーの家。お母さんは大学院を出ているソーシャルワーカーで、病院で働いており、お父さんはトラックの運転手だった。お母さんはきれいな英語を話すのに、お父さんには独特の訛りがあった。私は米国へ行く前に教科書に「アメリカは人種のサラダボールのような国」と書いてあったので、人種が混ざって住んでいると思っていたのが、どうやらくっきり違うらしい。友達とショッピングに行くときに電車に乗っていたら、あるところを境に乗客の人種の構成比率ががらりと変わった。それには驚いた。
お父さんは体が大きいし声も大きいし、言っている英語がわからなかったので、とにかくこわかった。学校と家をバスで往復していた。ホストファミリーのある所で降りなければ、学校から乗ったバスはどんどん南下して、益々危険な地域に入っていくので、すごく怖かった。初めて乗ったとき、降り方がわからなかった。とにかく紐を引いて、降りた。それができたので、息せき切って家に帰り、バスに一人で乗れたことを報告したら、お父さんが大爆笑して、それ以来打ち解けて話せるようになった。
そのお父さんが、最後の日に「異人種間結婚についてどう思うか」と聞いてきた。私には「異人種間結婚」の意味がよくわからなかったが、お母さんの両親がお父さんと結婚することに反対だったそうだ。私は「日本ではアメリカは人種のサラダボールだときいていたから、気持ちさえあれば人種なんて関係ないと思う」と答えた。その時は本当そう思った。
右も左もわからないまま米国の大学へ行き、米国の大学生とまったく同じように扱われた。だから履修科目も自分で調べて、とりたい授業を決めた。途中から金融をやったのだが、とにかく数学を使ってやるので、勉強量がとても多く、ひたすら勉強をした。
シカゴから大学のあるウィスコンシン州に移ったら、人種の 80 %が白人だった。クラスでは私一人がアジア人ということが多かった。シカゴは大都市なので色々な人種がいたが、ウィスコンシンは白人ばかりなので、本当に驚いた。なんでこういうことが起こるのかと思って、社会学の「階級、人種、ジェンダーによる不平等」という授業をとった。先生は黒人と日本人のハーフだけど日本語をしゃべれなかった。留学生なので、この授業をとってよいのか許可をとりにいった。
先生は授業で習ったことより、自分で感じたことを大事にしなさいといった。「サービスラーニング」といって、自分が奉仕しながら何かを学ぶことを週一回しなければならず、私は、ホームレスの子どもたちの放課後の世話をボランティアとして半年間やった。子どもたちは福祉施設に帰っても両親が働きに出ている子供たちのために放課後プログラムを提供した。
月曜日から木曜日までは金融の勉強をやり、金曜日は午前中で授業を終えて、 12 時から 6 時まではボランティアで子どもたちのところに行った。
ホームレスの子どもたちというので、みんな黒人かと思っていたが、白人もいればヒスパニックもいた。その時自分の偏見に気づいた。社会学では「自分の中の偏見に気づくことを忘れないで、気づいたらそれを取り除くよう努力をしよう」ということを習った。
子どもたちは素直だったが、私のことをまったく気にしていなかった。この「サービスラーニング」は授業の一環なので、毎回行った後に授業で習った理論と、実際に経験したことを組み合わせてレポートを書かなければならなかった。
ボランティアは何か一つプロジェクトをしなければならないので、ある日、私も折り紙を教えた。子どもたちが非常に興味を持ってくれた。子どもたちは小さい頃から不安な環境にいたので、集中力はなく、じっとしていないし、たまに情緒不安定になったりすることがある。先生方がプロなので、対処がしっかりしていた。折り紙のときはとても辛抱して一生懸命やっていた。日本語も読めないのに、折り紙の本を読もうとしていた。すごく喜んでくれた。あんまり嬉しかったので、レポートに書いた。外国にもいかれない子どもたちにとっては、私のような外国人がいてくれることでよい影響になると社会学の先生に言われた。
社会学の授業のときに、その団体が立ち上がり、どのような目的で、どういう問題に直面しているのかをインタビューしてレポートを書く宿題があった。子どもたちと自分の組織を守るために、書類をしっかり作成し、すごくシステム化されていた。責任がどこにあるのかも明確だった。偏見などに戦わなければならないので、これが防御の方法だということを説明され、なるほどと思った。ボランティアに対しても、子どもにむやみに触らないとか。「また来週会おうね」というと、次にこられなくなったときに子どもたちは傷つくので、「また会おうね」だけを行って帰る。そういう細かいことまでレクチャーを受けた。
日本を出なければそういう問題にもふれなかったし、その授業をとって初めて自分がマイノリティーであることを知った。「貴女はどこから来たの」と聞かれ、「日本から」というと日本のことを色々聞かれた。日本にいたらそんなことはなかったが、そういうことが毎日続き、 1 年間もあるとうんざりした。そういう立場にあって、初めて見えるものがあった。市民権が無い不安さもあった。アメリカの日系アメリカ人や二世に興味がわいた。この経験が日米学生会議に役立った。
その後ニューヨークで 3 ヶ月間インターンシップをやって帰国した。
70 年以上の歴史をもつ。 1934 年の満州事変の時に日米関係のことを不安に思った日本の学生が、「世界の平和は太平洋にあり、太平洋の平和は日米間の平和にある。」というスローガンを掲げ、自分たち学生の手で平和を作り出そうと船でアメリカにわたった。アメリカ人の学生と討論をはじめたのが始まり。以来第二次世界大戦中で中断されたのだが、ぎりぎりまで頑張って、戦後はすぐ日米の架け橋になろうということで再開した。宮澤元首相も参加した。この会議参加を機にその後活躍されている方が多い。
毎年開催地は日本、アメリカと交互になる。 2005 年は戦後 60 年ということで「共に作る明日。戦後 60 年を振り返る」というテーマで京都、滋賀、大阪、神戸、広島、沖縄と、各地をアメリカ人学生と一緒に回りながら、色々なトピックについて話あった。夏の一ヶ月の間、アメリカ人学生 40 名を日本に招いて、日本人学生 40 名、合計 80 名が各地を回って討論をする。 30 日間一緒にいるので、すごく仲良くなり、会議が終わっても交流が続いている。「ニュース 23 」の TV 番組でも公開された。
今回のようにアメリカ人学生が日本人学生と一緒に原爆ドームを見るという機会はなかなか無いと思う。みんなで回っていると、突然平和記念館で泣き出すアメリカ人学生がいたりする。終わったあとすぐ、どう思ったかと話し合い、気持ちを共有できた。日米両サイドから物事を見られたし、アメリカ人学生の意見も貴重だった。
例えば、私のパートナーの学生は、「アメリカは長崎に原爆を落とした後の影響をはかるために、空襲をしばらくの間しなかった」と説明してあるパネルを見て、「日本ではこういう教え方をされているの」「科学実験のためにアメリカは空襲をしなかったという教え方をされているの」「でも僕の考え方は、どうせ大きな爆弾を落とすのだったら、ここに 30 発の爆弾ミサイルを無駄使いする必要がないと思って、僕らが空襲をやめんだ」といった。科学実験という残虐な視点からでなくて、あくまでも効率ということからで、そういう意図からやっていないのではないか、といわれた。たしかにそういう考え方もあるなと思った。
すごく勉強になった。アメリカ人学生もだんだん意見が変わっていった人もあった。最初は「原爆が戦争を終わらせたんだ」と正当化する人もいたが、どう捉えてよいかわからなくなった人もいた。沖縄に行った際も、一番被害の大きかった 糸満市 というひめゆりの塔で有名なところでホームステイした。ホストの家族には戦争で亡くなった方がたくさんいたのに、今はアメリカ人をホームスティで受け入れてくれて、沖縄の伝統芸能を見せてくれた。アメリカ人の友達は、「あの人たちは、あんなにひどいことをした私たちに、なんでこんなに良くしてくれるの」と聞いてきたので、私は「わからないけれど、平和はたぶん私たちが作っていけるものじゃない」と答えた。なんらかのきっかけを日米 80 名の学生に与えられたということはすごいことだと思う。なかなかそういう機会はない。
最後の感想のときに、「なんだかわからないけれど、この夏すごい経験をした。帰国したらまず家族にこのことを話して、共有したいと思う。そうすれば、本当に私たちは日米の架け橋になれるかもしれない」とアメリカ人学生がいった。「希望の炎を日米に照らそうというけれど、私たちは有事のときは希望の光となろう」といって会議を締めくくった。
来年はアメリカで開催され、私も実行委員として参加する。今の日米関係は世界情勢を見ないと語れない。日米だけを見ていたのではだめなので、 中国人学生を招いて日中米について話し合ってもらろうというプログラムを企画している。
関連資料
日米学生会議