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アスリート、そして私たちのための『メンタルトレーニング』

前田 佳菜絵(14)

 昨年のラグビーW杯で、日本代表が強豪南アフリカを破って世界を驚かせたことは皆さんの記憶にも新しいだろう。しかし、日本代表の大躍進の陰には「メンタルトレーナー」の存在がいたことは知らない人も多いだろう。そもそも「メンタルトレーナー」「メンタルトレーニング」という言葉自体が敷居が高く聞こえる人もいるかもしれない。一体「メンタルトレーナー」とはどのような仕事なのだろうか。主にアスリートへのメンタルトレーニングを行う、日本スポーツ心理学会認定メンタルトレーニング上級指導士の田中ウルヴェ京さんに取材した。

日本スポーツ心理学会認定メンタルトレーニング上級指導士の田中ウルヴェ京さん

 まず、なぜメンタルトレーナーになったのかを質問すると、田中さんは「『メンタルトレーナーになりたい』とは思わなかったです。メンタルトレーナーになると決めてから何かをしたのではなく、スポーツ心理学をアメリカの大学院で学び、色々な経験を積み重ねていくうちに、『この経験はメンタルトレーナーになったら役に立つかな』と思ってこの仕事を始めましたね」と身振りも交えながら説明した。2002年にメンタルトレーナーとして活動を始めた時から田中さんは「スポーツ選手、コーチとしての経験は、そのまま現役のアスリートやコーチへのメンタルトレーニングに役立つと思っていた」そうだが、当時の日本では、まだメンタルトレーニングが現場に浸透していなかったので「自分たちでメンタルは管理できている」とアスリートやコーチに思われてしまい、なかなか活動ができなかったそうだ。

 田中さんは、「コーピング」という、ストレスの原因となる状況などの受け止め方を調整する方法のメンタルトレーニングをおもに行っている。「コーピングは、選手の実力発揮にはとてもいい方法だと思います」と田中さんは笑顔で話した。田中さんの著書には多くのコーピングの方法が載っているが、それらは先行研究の結果と田中さん自身の経験を合わせて考案されている。また、アスリートと一般人のストレスの違いについて問いかけると「アスリートと一般人のストレスは同じです。というよりも、人は人によって違う固有のストレスを持っているから、特にアスリートと一般人のストレスに違いはありません。人によってストレスへの対処は変わってきます」と田中さんは詳しく説明した。

 そして、田中さんは「自分の選手時代の経験は、メンタルトレーナーとしての活動のなかで使っていい時と使ってはいけない時があります。私の選手時代の目標は『オリンピックでメダルを取る』でしたが、例えば『スポーツを楽しみたい』という選手がいたら、私の経験、考えをそのまま使ってはいけませんよね」と話した。

 また、「全てのストレスをコーピングはできません。たとえば『死』に関するストレスは、誰にとっても難しいですよね。しかし、生きるというのはとても辛いことが多くあるけれど、生きるということで多くの色々な自分固有のコーピング(対処行動)を作ることが大事です。例えば『あなたはガンで余命は3ヶ月です』と言われたら、どのようにその『ガン』という言葉に向き合って3ヶ月生きていくことにするのか。これこそがコーピングです」「悲しいという気持ちにはコーピングできません。けれど、悲しい自分をどうするか、という行動を作るコーピングはできます」と田中さんは真剣な表情で語った。

 最後に田中さんは、これからのメンタルトレーナーとしての活動について「これからやりたいことは多すぎますね。ビジョンとしては、一人一人の方に『『あるべき自分』ということにとらわれず、ありのままの自分でいること』ということが人生で一番やらなくてはいけないことだ、と伝えたいです。これが、実力発揮や人の役に立つこと、さらには死ぬ直前に『生きてて良かった』と思えることにも繋がります」と悩みながらも話してくださった。 田中さんへの取材で、メンタルトレーニングはもちろんアスリートの結果のためにも大切だが、人としての生き方にも密接に関わることだ、と感じた。ストレスが多い現代社会、私たちは「メンタルトレーニング」への見方の敷居を下げて、だまされたつもりで一回試してみるべきかもしれない。

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女子サッカーを知っている?


2010/11/05               堀 友紀(17)

 目標まであと 66 校。 全国高体連によると、高校女子サッカーチームの登録数は 330 校。男子は 3964 校で、男子の 10 分の1の登録数になることが女子サッカーの目標だという。

 今年の春の大会で高校女子サッカーのルール改正があり、だんだん男子サッカーに近付いてきたが、メジャースポーツでない女子サッカーは今後何を目指していくのかということに興味を待った。そこで財団法人日本サッカー協会中村修三・女子部部長と、全国高体連サッカー部女子部の役員である床爪克至・文京学院女子高等学校サッカー部監督に取材をした。

全国高体連の 床爪克至氏

 「なでしこジャパン」の愛称で一気に知名度を上げた女子サッカー日本代表は北京五輪で 4 位に入賞し、国際サッカー連盟( FIFA )ランキングは現在5位で、来年ドイツで行われる世界大会(ワールドカップ)では優勝を目指している。しかし、「女子のオリンピック競技で、日本が金メダルを取れる可能性がある競技」といわれている女子サッカーについてはあまり世間で知られていないのが現状だ。

 日本サッカー協会によると 2010 年 3 月現在の女子サッカー競技人口は、小学校が 14,705 人、中学生が 6,585 人、高校生が 8,367 人、一般が 7,005 人となっている。この数字からも見て取れるように、小学生から中学生になるとともに競技人口が半分も減っている。中村氏も、床爪氏も、「小学校時代は男子と女子が地元のクラブで一緒に競技しているのが、中学校に女子サッカー部がほとんどないために、サッカーをやめてしまう選手が多い」とその理由を挙げている。

 高体連では「中学校にサッカー部を!」をスローガンにあげている。床爪氏は「試合には高校から審判を出したり、試合会場の提供などを行っている。中学での部活の体制が整えば、中学に上がるときにサッカーをやめてしまう人も減少し、女子サッカー人口増加に大きく貢献する。女子サッカーの発展は「中学校の部活が鍵を握っている」と言う。

 女子サッカー人口の少ないもう一つの理由はハードの整備の問題だ。「サッカーコートはとても場所をとるため確保が難しいので、フットサルコートを使うことなどの策がとられている」と日本サッカー協会の中村氏は言う。

財団法人日本サッカー協会中村修三・女子部部長

 また、床爪氏によると、どの中学も1校だけでは練習に必要な人数が集まらないことや、指導者不足などの悩みがあるため、いくつかの学校のメンバーが集まって一つのチームを編成している。都内で拠点校となったのは区立第四砂町中学校で、9校から集まった 30 人の生徒で週2回の練習を行っているそうだ。このような学校が徐々に増え続けていくことで女子サッカー部のある中学校が増えていくのではないか。

 女子サッカーを広める動きとして、床爪氏によると、高校女子の公式戦を都内の「味の素スタジアム」など大きな会場で開催し、女子サッカーというものを多くの人に知ってもらう方法を高体連ではとっているそうだ。だが、このスタジアムの使用料はサブグランドのアミノバイタルフィールドで、1日 25 万円。女子高校生の1日の試合にかける金額としてはかなり高額だ。選手たちにとっては、すごく立派な会場でできるという喜びはあっても、このように多額な費用をかけて、こんなにも大きな期待と希望をこめて借りた試合会場だとは知るよしもない。

  女子サッカーをもっと知ってもらい、広めていきたいという熱意をもった監督たちが選手たちの知らないところで動いているのだ。女子サッカーが正式に認められなかった時代には監督たちが自ら費用をだしてやりくりしていたという。

床爪氏によると、高体連サッカー部 ( 女子 ) は平成 24 年からインターハイ競技になる。実現までに 13 年かかったそうだ。高校野球でいえば「甲子園大会」のように、インターハイに出場することで学校の名誉となり、その学校が知られるようになって、サッカーをしたいと思う人が集まり、サッカー人口が増えていくのだと床爪氏は言う。「強化は十分できている」と胸を張って言った。   「サッカーは、全世界で共通するコミュニケーションを取ることのできる、人と人とをつなげる遊び道具だ。それだけすごいスポーツなのだから、高校から始めた女子生徒は、周りの選手との実力差を気にするのではなく、とにかくサッカーの楽しさを知ってほしい」と床爪氏。そして「今、サッカーをしている女子選手には絶対にやめてほしくない」と中村氏。両氏とも女子サッカーの発展を強く願っている。

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自分との戦いを乗り越え手にした金メダル~クロスカントリー新田佳浩選手に聞く~

南雲満友(15)

  バンクーバー五輪のクロスカントリースキーで金メダル2個を獲得した、新田佳浩選手(30)。その裏には、挫折、そして人一倍の努力があると知り、自分との戦いをどのように乗り越えていくのか、また試合前、試合中、試合後どんなことを考えているのかについて伺った。


クロスカントリー新田佳浩選手に聞く

笑うとえくぼができる、ニコニコとした笑顔が、とても印象的だった。

新田選手は、岡山県の雪の多い場所で生まれた。3歳の時、祖父の運転するコンバインに巻き込まれ、左腕の肘から先を失った。「障害にまけないように育てる」という両親の思いから、小学校4年生からスポーツ少年団に入った。アルペンスキーをやっていた父親や小学校の先生が新田選手にもアルペンスキーを勧める。バランス感覚を養うために、スキー板の幅がアルペンスキーの半分の4センチしかない、クロスカントリーも始めることになった。中学3年生の時周りの選手に追い付けなくなってしまい、一時はスキーをやめてしまった。しかし、当時活躍していたドイツのトーマス・エルスナー選手の姿を見て、もう一度頑張ってみようと思い、再起した。

新田佳浩選手

  そして2006年トリノ大会、スタート約1キロ地点で転倒した。 「あのときは自分自身メダルをとらなきゃいけないと思っていました。今まで自分がやってきたトレーニングをだすだけでいいと思えばいいのに、それに必ずメダルが付いていないといけないというプレッシャーがあったんです」。

新田選手は、この失敗から立ち直れず、一時期は、スキーの板を見ることも、トレーニングをすることも辛かったという。どこにこの気持ちをぶつけていいかわからなくなり、自暴自棄になっていた時に、仲間の一人が、「また4年後を目指せということだよ」と声を掛けてくれた。その時、自分を支えてくれているチームメイトやスタッフの存在の大きさを改めて実感したという。

新田選手の二つの金メダル

クロスカントリー人生の中で一番印象に残っていることを尋ねると、「トリノでの転倒かなぁ。もしあの時転んでいなかったら、今はもう競技を続けていないと思う」と答えた。

この転倒は転機となった。失敗は失敗じゃない、失敗をして得られるものが、きっとある。不可能だと思っている自分自身の心のカラを破ることが、自分の可能性へとつながる。「不可能とは可能性だ」という座右の銘には説得力があった。

トリノでの悔しさをばねに迎えたバンクーバー五輪本番前夜、新田選手は奥さんから渡された「手紙」を読んでいた。「後悔のない滑りをしてくれれば、私は満足」。この時、涙とともに「もう僕は滑るしかない」と決意した。

新田選手はトリノからバンクーバーまでの4年間を振り返り、「相手への感謝の気持ちを忘れていた」「自分のためだけでなく、自分を支えてくれている人たちのためにも、がんばろうと思うようになった」と語った。

スタート地点、いつもはトレーニングしたことなどを振り返るが、バンクーバー五輪では、何も考えなかったという。「あきらめられることをやってきた」。つまり、もしメダルが取れなくても満足できるだけの練習をし、自分と向き合ってきたのだ。そう思えるほど重ねた努力が金メダルへとつながった。

  「止まってしまった時を刻む大会」としていたバンクーバー五輪を終えた今、ソチ五輪をどんな大会と位置付けるかと尋ねると、「次につなげる大会」との答えが返ってきた。この言葉には新田選手の次世代への思いが込められている。

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CE記者が「グローバル・ユース・フォーラム」を取材

CE記者が「グローバル・ユース・フォーラム」を取材  2005/02/27

2月27日、CE記者5人が、知的障害者のスポーツの祭典「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野」の関連行事の一つである、「グローバル・ユース・フォーラム」を取材した。
フォーラムでは、長野県内小中高校14校の児童生徒と、アメリカ、オーストリア、中国など14の国と地域のSO活動に参加する知的発達障害者ら計84人が参加。知的発達障害者とサポーターが3人1組のチームとなり、「Changing Attitudes – Changing The World」というテーマで、知的発達障害者への理解をどう深めるかなど活発に意見交換が行われた。
当日会場には、スペシャルオリンピックスの創始者のユーニス・ケネディ・シュライバー国際本部(SOI)名誉会長、ティモシー・ケネディ・シュライバーSOI会長、SOを支援してきたビル・クリントン前アメリカ大統領、細川佳代子SO日本理事長(細川元総理夫人)、田中康夫長野県知事なども参加し、各国のアスリートやサポーターたちにエールを送った。

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