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新しい教育~和田中学校「よのなか科」に参加して~

新しい教育~和田中学校「よのなか科」に参加して~
2010/1/24

原 衣織(18)

 「学校での勉強は、社会に出てからの役には立たない。」誰でも一度は耳にするこの「定説」が、いま崩れつつあるようだ。

 近年日本では、現代社会で生きていく上で必要な能力を育てる様々な「新しい教育」が導入されている。職業について学び、自分の将来を考える「キャリア教育」、ネットの基礎知識を学ぶ「情報リテラシー教育」などがそうである。

 私たちチルドレンズ・エクスプレスは、社会に通用する力を身につけることをテーマとした授業「よのなか科NEXT」が行われている杉並区立和田中学校を訪れ、「よのなか科 NEXT 」の授業に実際に参加するとともに、 代田昭久 校長ら にインタビューを行った。

 今回は、高校受験間近の三年生を対象として、「感じのいい自分をつくる」をテーマに入試の面接対策の授業が行われた。授業は、これまで1万人以上の面接をしてきたというウィルパワーサポート代表取締役の鈴木聡氏が担当した。

 三年生 160 名が集まった体育館の中で、入試でよく聞かれる質問を予想するクイズや、自分のアピールポイントを文章化して発表するワークシート、見えないボールをアイコンタクトでパスする訓練など、 90 分という時間を目一杯使った多彩なプログラムがテンポよく進められる。

 また、生徒たちは受け身でプログラムをこなすだけでなく、随所で校長先生からマイクが向けられ、学年全員の前で意見を言うことが求められる。「最初は中学生を対象として授業を行うことに不安があったが、和田中学校の生徒たちは、よのなか科の授業を普段から受けているせいか慣れていると感じた。」と鈴木氏が話すように、生徒たちは全体の前で話す時にも堂々としている。

 生徒に尋ねてみると、「未だにみんなの前で話すのは緊張するが、自分の意見が皆に聞いてもらえるし、いろんな人の意見も聞ける」と言う。「この授業を受けてきたことで、自分の意見を伝えることができるようになった。ニュースを聞くときの考え方も変わった」と話す生徒もいた。とはいえ、三年生にとってこの時期気になるのはやはり高校受験。受験勉強を優先したい気持ちはないのか尋ねると、「勉強したい気持ちはあるが、この授業は受験を乗り越えたあと、社会に出てからも役に立つものだと思う」という答えだった。

 「よのなか科」の授業が和田中学校で始まったのは7年前だ。都内の公立中学校で初の民間人校長である藤原和博元校長が始めたものを、代田昭久校長が昨年の4月から「よのなか科NEXT」として新たに始めたのだという。「書道と表現」「オリンピック」などユニークなものから「人工妊娠中絶の是非」「赤ちゃんポスト」などのシビアな問題まで幅広く扱うこの授業では、ワークシートなどの教材は全て校長の手作り、ゲストティーチャーの手配も校長が一人で行うという。負担も大きいが、それでも「社会に自立し、貢献する力をつけてほしいし、そのために社会とのつながりを教えていきたい」という思いから行っているそうだ。

 そして、「よのなか科 NEXT 」に代表される和田中学校の特別授業に欠かせないのが、多くの学生ボランティアや地域の方々の存在だ。今回の授業にも、大学院生などの 10 名近い学生ボランティアや保護者が参加していた。

 よのなか科 NEXT の授業について「普通の授業では取り扱いにくい微妙なテーマに取り組んでいるのがとても良い。答えのない授業でおもしろい。」と語る学生ボランティアの新堀亮輔さん( 23 )はキャリア教育に関心があり、昨年の 11 月から、よのなか科 NEXT の授業や「ドテラ(学生ボランティアが生徒に勉強を教える活動。土曜日寺子屋)」のサポートを行っているという。

 「たくさんの大人が参加することで、授業のクオリティーを高めることができる。」そう校長が話すように、和田中学校は授業の見学や参加、サポートなどを通して積極的に外部の人々を受け入れている。生徒たちに大人と関わる機会を作る一方、教育に興味のある大人たちに対しても、実際の現場を見て体験できる場を提供しているのだ。

 学校では教科学習のみを行い、社会的スキルは学校外の生活で学ぶという構図が成り立たなくなったと言われる今、学校には新たな役割が求められている。しかし教師だけでそれを教えるのは現実的に困難である。そこで、毎回外部から様々な分野の大人を講師として招くという和田中学校の取り組みは、他の公立学校にとっても参考になるのではないだろうか。多くの人脈を持つ民間人校長ではないと難しいようにも思えるゲストティーチャーの手配も、地域の大人やその知り合いがゲストティーチャーの役割を担えば解決できる。

 多くの社会経験を持つ大人と、柔軟な感受性を持つ子ども。それぞれが互いに学びあえるような「社会に開かれた学校」の実現を、子どもの一人として期待したい。

取材記者:原衣織( 18 )、建部祥世( 18 )、中元崇史( 18 )、宮沢結( 16 )

取材に参加した記者の感想

 宮沢 結( 16 )

「よのなか科 NEXT 」の授業に参加をし、授業を通して感じたことは、多くの人がこの授業に関わっているということです。生徒と先生はもちろんのこと、ゲスト講師や地域本部のボランティアの方々、見学者や私たちのような取材者。

参加する人が多いから、より踏み込んだ内容の話ができるし、多くの大人の目を配ることで授業の精度も高まるのではないかと思います。

今回授業の中で印象的だったことは、問題を投げかけて、生徒さんに自分の考えを発表させる機会が多かったことです。私自身、中学時代の授業を思い返してみても、自分の意見を発表する機会はほとんどありませんでした。

今回取材した生徒さんは意見を発表することに対して「緊張するけどだんだん言えるようになった」と答えていました。やはり長い期間「よのなか科 NEXT 」を受けてきているだけあり、きちんと発表している姿が印象的でした。これは社会に出た後も大きな糧になると思います。

多くの大人と生徒さんでつくられる「よのなか科 NEXT 」の授業。学校の枠を超えて学校外の結びつきによって行われていることが「よのなか科 NEXT 」魅力だと感じました。

原 衣織( 18 

  この取材で最も印象的だったのは、「この取り組みは、民間校長だからできるというわけではない。やる気がないとできない」という代田校長のお話でした。

それまで私は、この「よのなか科 NEXT 」の授業は校長が元民間人であるからこそできることであり、普通の公立学校では取り入れにくいと考えていたからです。

しかし今回の取材を通して、二年も前からあらゆる知人に連絡を取ってゲストティーチャーを引き受けてくれる人を探したり、授業の前は二日間ほぼ徹夜でワークシートを作ったりといった様々な苦労があるということを知りました。

確かにコネクションや企画力も重要ですが、それよりも大事なものは、「生徒に社会に通用する力を身につけさせたい」という強い思いなのだと感じました

中元崇史( 18 

初の民間人校長が誕生した公立中学校としてメディアでも注目を集めた杉並区立和田中学校。そんな和田中学校で行われている「よのなか科NEXT」の授業に実際に参加させていただいた。

メディアがよく取材に訪れるということもあり、授業は緊迫した雰囲気で行われ、生徒たちも委縮して授業を受けるのではないかと考えていた。しかし、そんな不安は一気に吹っ飛んだ。この和田中学校の生徒、実に良い意味でのびのびと授業を受けている。マイクを急に向けられても、臆さず堂々と喋ることができる。授業の最後にはアトランダムに生徒が二人選ばれ、模擬面接をステージ上でさせられたのだが、これにも上手に対応。また周りの生徒も意見を発した生徒を冷やかすこともない。ここまで生徒全体が自らを表現できる力や他人の意見を受けとめる力を身につけている中学校は珍しいだろう。

また、私が印象に残っているのは生徒と代田校長の距離感である。私の学校生活においての校長先生とは関わる機会があまりなく、どこか遠い存在であった。ところが代田校長は、すれ違う生徒全員に声をかけ、生徒たちも気軽に校長室に訪れていた。民間人校長ということもあり、独特な授業形式を取り入れていることから、どこかワンマンなイメージで生徒にとって近づきがたい存在になっているのではないかと想像していたのだが、実際は全く違った。この距離感だからこそ、和田中学校のアットホームな雰囲気が生まれているのではないかと感じた。また、授業後の校長室で行われた反省会に同席させてもらったのだが、ここでも校長を含めた教師陣と学生ボランティアが熱心に意見を出し合う。代田校長だけでなく周りの教育者としての強い想いを持った人たちのサポート姿勢があるからこそ、和田中学校は成立しているのだ。

テレビや本で得た印象を大きく覆される取材となった。私立に人気が集中する時代だが、一度は通ってみたいと思わせる魅力的な公立中学校であった。

建部祥世( 18 

私が小学生の時に本格的に開始されたゆとり教育。算数や国語といった通常の授業時間数が減り、変わって総合学習や土曜日の寺子屋などが新たに時間割に組み込まれた。中学校の総合学習の時間に読書や職業体験などをしたが、あまり熱心に取り組んでいなかった記憶がある。読書といってもマンガを読んでいる人もいればゲームで遊んでいる人もいたし、道徳ではほとんど先生が話し続け、生徒たちが一言も話さずに終わる授業もあり、総合学習の時間はほとんど崩壊しているようなものだったからである。

また小学生のときの寺子屋は全員参加となっていたが、実際には塾や習い事、用事のある人は参加していなかったし、「だるい」と言って休む人も大勢いた。

このような状況しか知らない私は、ゆとり教育を取り入れた理由や目的が全く分からずただ単純に、学校が休みになり授業が簡単になったことを喜んでいただけだった。しかし今回の取材を通して、ゆとり教育のあるべき姿を「よのなか科 NEXT 」 の授業に見た。

私たちは今回、高校入試に向けての面接講座に参加した。まず驚いたのが授業の進め方である。ゲストティーチャーと校長先生が舞台に立って授業を進めていくのだが、一方的に話すのではなく頻繁に生徒に質問したりクイズを出題したり、時にはゲームなどの実践を取り込んでいた。またオリジナルのワークシートを駆使して生徒たちの関心を途切れさせないようにするなど様々な工夫を凝らしていて、今まで私が受けてきた受け身の授業とは大きく異なっていた。

そして、生徒たちのけじめの良さや集中力の高さにも感心した。チャイムが鳴り終わったと同時にすぐ号令がかかり、体育館が一気に静まり返る。ゲストティーチャーが話している間も皆前を向き、真剣に話を聞いていた。極当たり前のことではあるのだが、私の学校では集会のときに誰も先生の話を聞いていないことがしばしば問題になり、そのような環境に慣れてしまっていたせいか、和田中学校の生徒たちの姿勢には驚いたのである。

また和田中学校の生徒たちは人前で意見を言うのにも慣れていて、グループでの話し合いのみならず、全体の前で話すことにも堂々としていた。生徒全員が真剣に授業に取り組み、積極的な雰囲気を皆で作り出しているからこそ、一人一人も一歩踏み出せるのだと同じ空間にいることで感じた。

私が中学生のころもこのようなユニークな授業が取り入れられていたら、もっと社会の問題に興味を持って生活をするようになっていたかもしれない。形式にとらわれるのではなく、このような新しい教育がどんどん普及し思考力や意見を発表する力、様々な情報をキャッチする力など通常の授業では学べない、社会に出たときに役立つ力を身につけられる生徒たちが増えていけば良いと思った。

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小学校の英語教育の必修化に向けて・・・

小学校の英語教育の必修化に向けて・・・
2009/5/15                 宮澤 結( 15 )

 今現在、文部科学省は「英語が使える日本人」の育成を目指し、小学校での英語教育の導入を検討し始めている。また最近では、小学生のうちから英語塾に通わせたり、なるべく小さいうちから英語を習わせることを望む親も多いように思われる。

 確かに、現在の日本の TOEFL の点数はアジアの中で下から二番目であるし、小さいうちに英語教育を行おうという考えも理解できる。しかし、果たして小学校への英語教育の導入は必要なのだろうか?そしてそれが世界に通用するような国際人を育成することに繋がるのだろうか?

 先にも書いたとおり、小学校での英語教育の導入が検討されているが、すでに取り組んでいる学校も少なくない。そこで、平成九年から外国語活動を小学校3年生以上に取り入れている目黒区東山小学校に取材をした。この小学校では週一回、担任の先生と一緒に ALT ( Assistant language teacher )の先生が教えている。「当小学校は、 ALT の外国人の先生が学校に居るから、気軽に児童が英語を話せる環境ができた。目黒区の教員・学校評価ではほとんどの保護者が賛成し、反応も良い」と言っていた。また、外国語活動を受けた児童は中学校でオーラルの授業では英語に抵抗が少ないという。

東京都目黒区の東山小学校で国際担当をされている齋藤寛治先生

 ここでもう一つ疑問が生まれた。私の通っていた小学校も外国人の先生と日本人の英語の先生によって週に一度ほど英語の授業があり、小学校の英語教育を受けたおかげかは分からないが、中学入学当初の英会話の授業では特に勉強をしなくてもテストで良い点数を取れていた。しかし、東山小学校の取材で聞いたように、中学1年の後半になってくると勉強していなかった分成績が下がったという経験がある。では、いくら小学生のうちから英語を教えても中学のカリキュラムが変わらないのなら、小学校に英語教育を取り入れても英語力は変わらないのではないだろうか?中学で他の生徒と差がなくなるのであれば、小学校への英語教育の導入はどんな意味があるのか?

 そこで私達は『英語を子どもに教えるな』などの著書で知られる東京コミュニティースクール校長の市川力さんにお話を伺ったところ、「子どもが英語に触れることと教えることとは違う。かりに0歳児が英語に触れる環境におかれたとしても、そのこと自体が弊害をもたらすわけではない。問題なのは、子どもに英語を教え込むことが可能だと安易に考える大人の発想だ。たとえば、小学生に単語などを反復して書いて覚えさせたり、フレーズを繰り返し言わせたりしたところで、何のためにそれを行っているのか、その意義を理解した上での学びでなければ効果はない。確かに小学生は子ども感受性が豊かなので、外国人や外国語に対しても先入観なく対応できるので、異言語と親しむ意義はあるだろう。しかし、それは、単に英語を教科として取り入れて、英語を教え込むということではない」と言う。

  また、「英語を習得するには周りの環境が大切だ」と言う。いくら週に数時間の授業を行ったとしても家ではテレビもラジオも家族の会話も日本語だから、授業だけで英語がぺらぺらになることはないだろう。

 それでは、どのように生徒に“学ばせる”のか。市川さんは、「英語はセルフラーニングが大切。それをコーディネートする先生が必要。そのためには子どもに英語を自発的に学びたいと思わせる楽しい授業を、先生と生徒が一緒に作っていくことが良い」と言っていた。

 確かに週に数時間の授業だけで英語がしゃべれるようになることは不可能に近い。ましてや小学生の小さいうちから単語だの文法だの叩き込まれたら、英語嫌いの子が増えてしまうだろう。そう考えると、中学1年後半まで英語の点数が良かった私は、小学校の英語教育によって、少なくとも英語への興味と英語をもっと学びたいという強い意思を持つことが出来たのだろう。ペーパーテストの紙の上の点数でなく、どれだけ伝えたいかというコミュニケーション技術が大切だと思う。字幕映画を見せるでも良い、アメリカのニュースを見せるでも良い、何か英語に興味がわくような授業が展開されることを願っている。

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小学生の英語教育

小学生の英語教育
2009/5/15               飯沼茉莉子(12)

 今日本では、ゆとり教育が問題にされている中、英語の授業を増やそうとしている。平成22年度からは、話すことだけではなく、書くことにも力を入れるために全公立小学校に英語ノートが配られる事になっている。これを知った私達は、他の区に先んじて英語教育に取り組んでいる東京都目黒区の東山小学校で国際担当をされている齋藤寛治先生と今の小学校の英語教育のやり方に反対されている市川力さん( 46 )に取材をした。

 目黒区立東山小学校は帰国児童が多く、早くから外国語活動に取り組んでいる。授業は 3 年生以上は週1回、年間約30時間。内容は授業前に学級担任の先生、 ALT (アシスタント・ラングエッジ・ティチャー)の2人が集まって会議をし、指導内容について確認している。

 齋藤寛治先生は、外国語活動によって、「英語の力だけでなく、コミュニケーション能力、自己表現力を伸ばすこと、そして、英語を学ぶことで思いやりの心・道徳の精神も身につけてほしい」と外国語活動の効果を期待している。

 また、 ALT の先生が長い時間学校内にいるため、気軽に児童が英語を話せる環境があるということもあって、英語の挨拶・会話を積極的にするようになった。

 高学年になると、英語を自分の力で使うようになる子が増え、外国語活動を通して子供達の成長を実感しているという。

 平成9年から外国語活動に取り組んでいるが、今まで保護者から積極的に取り組むことに反対の声はなかったそうだ。英語より日本語の土台をしっかり作るべきという反対意見に対しては、国語科を中心として国語を適切に表現し、正確に理解する能力を身につけさせるとともに外国語を学んでいるので、児童の日本語がおろそかになっていることはなく、問題はないと言っている。

 ゆとり教育によって授業時間が少ない中で、さらに外国語活動の時間を増やすと他の教科に影響を与えてしまうのではないかという意見に対しては、 3 年生以上は総合的な学習の時間における国際理解で扱うこと及び十分な総授業時数を確保しているため影響はないそうだ。

 次に、小学生の英語教育に反対意見を述べていた市川力さんにお話を聞いた。市川さんは6年前まで 13 年間、米国で学習塾の日本語講師として、日本人駐在員家庭の子供たちに受験に向けての授業をしていた。その時に日本語と英語が中途半端になる子を見て「英語を学ぶ前に、まず日本語の論理的思考力を高めること、伝えたい内容を持つことが大切」と感じたと言う。「小学校から英語教育を始めるにしても、英単語やフレーズをただ覚えさせるのではなく、英語を媒介として人と知り合ったり、情報を得たりする面白さを引き出す授業を構築すべきだ」と提案している。

 全国の小学1・2年生だと8割、小学5・6年生だと 9 割の小学校で英語教育が行われていることに対しては、「英語に触れる」というレベルに過ぎず、そのこと自体が大きな弊害を生むとは思えないと言った。大事なことは、親も変わらなければいけないということだ。なぜなら、親は週に1回ネイティブの先生と会話をすれば英語はすぐ話せるようになると思いこみ、全然協力しないからだそうだ。

 整備されたカリキュラムのもとに小学校の英語教育を行えば、効果も期待できるし、生徒の言語に対する興味もわくと言われ、早期英語教育が悪影響を与えるようには思えないとも言った。問題は「英語を教科として加えれば、アジア諸国の英語レベルに追いつき、解決するという安易な考え方にある」と言っていた。なぜなら、ひとりひとりの学びの特性が違い、のみこめる速さが違うからだ。「今の小学生は生きる力を失っているから、ほめる教育をして、厳しい教育はやらない方がいい」そうだ。

 私は初め、市川さんの考え方を間違えてとらえていた。今回の取材で市川さんは英語を教えることに反対なのではなく、今の英語の教え方に反対だということがわかった。 

『英語を子どもに教えるな』などの著書で知られる東京コミュニティースクール校長の市川力氏

 私自身アメリカで生まれ、英語は自然に話していたが、低学年で帰国したため、語彙が少なすぎて作文が苦手だ。だから、話すことだけではなく、書くことの重要性を分かってもらいたいと思う。簡単な英会話が話せるようになったら、そこからは、どれだけ多くの語句を知っているかで差がついていくのだ。日本の小学生がバランスよく英語を身につけていくことを願う。

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座談会

ネットの便利さ

 インターネットは便利である。子どもたちの生活や学校に定着し、その利用範囲はネット技術の進歩に比例して急速に拡大しつつある。ネットの便利さの裏にはリスクと責任が伴うことを子どもたちがはどこまで実感しているのか、4人が座談会で語った。


井上麻衣(18)、曽木颯太朗(17)、平吹萌(17) 、藤原沙来(18 司会)
2009/01/10

■子供のネット活用法
沙来: みなさんはどんな時にネットを使いますか?
?
麻衣: 何か調べて情報を得る時に利用します。

萌:  友だちのブログなどを見る時に利用します。

颯太朗:僕は本を買う時に、たまに使うことがあります。

沙来: 情報をそのまま鵜呑みにしてしまう?それとも自分の基準を持っていますか?

萌:  私はどちらかというと鵜呑みにして、そのまま友だちや親に
「こんなこと書いてあったよ」って伝えてしまいがちです。

颯太朗:新聞社のサイトはそのまま見るのですが、他のブログなどに書いてある
ことは、いくつか見比べて内容を確かめます。

沙来: ネットで一番便利な点はどこですか?

麻衣: 情報がいち早くその場でわかることです。

萌:  フィギュアスケート競技をテレビで観ているとイライラするけれど
ネットで検索すると結果が出ている、そういう便利さがある。

麻衣: 誰でもその情報を見られるから「情報の共有化」ができる。

颯太朗:僕も同じです。インターネットでは、新聞やテレビではわかりにくいこと、
つまり、みんながどのようにこの品物を考えているかすぐわかる。

■リスクへの意識
沙来: 逆にネットの危険性を考えたことはありますか? 匿名のブログとか、
    お金の振り込みだけだったりすることもあるわけですが・・。

麻衣: ネットの危険性は、情報がすぐ得られる分、何が本当かがわかりにくい部分が
ある。誰がしゃべっているのか分らないので判断基準が難しい。
アダルトサイトも誰でも見られるので教育に良くない。

萌:  匿名で、しかも本人の知らないところで誹謗中傷できる点は危険だと思います。

颯太朗:誰でもどこでも見られるので、まちがった情報が世の中の隅から隅まで
広まることもあるし、個人情報も一度広まったらなかなか収拾が
つけられないと考えてしまいます。

沙来: いま出てきた危険性に、みんなは何か対応していますか?

麻衣: 誰かを中傷したり、そういうことは書き込まないとか、
当たり前のルールは守っています。

萌:  なるべく見るだけで書き込みはしません。自分の情報を書き込む掲示板も
作りません。

沙来: 自分でブログを作ったりはしてない?

萌:  プロフも作らない。

■宿題もコピペで?
沙来: 学校生活では、どんな時にネットを使いますか?

麻衣: 課題が出て調べる時に、図書館へ行くよりも家のパソコンですぐできるので
情報を得るのはそっちになってしまいます。

萌:  情報の授業でインターネットを使うので、学校でおもしろいサイトを見つけたら  
家に帰ってそのサイトを見てみたり・・。

颯太朗:僕は情報の授業もないので、学校生活と関わる点ではあまりないです。

沙来: 授業の課題にネットのものをそのまま使っていいのかという問題が
があるけれど、実際にやったことはありますか?

麻衣: 例えば「この人について調べなさい」という課題には、
その人の本を探したり、関係する情報はどこで得られるかを調べるために
使うので、年表などをそのまま使ったりすることはないです。

萌:  ウィキペディアで見て、それを基準にその人の情報をまとめています。

沙来: それはコピー&ペーストでなくて、自分の言葉で書き換える感じですか?

萌:  書かれていることを自分でメモする感じ。

沙来: 颯太朗くんは学校の友だちでコピペをしている生徒はいますか?

颯太朗:インターネットからはないですね。僕もすごく知ってるわけでもないんですが。

沙来: 逆にどこがコピペの利点だと思いますか?

麻衣: 短い時間でものができあがることと、自分で考えないので考える時間を他のこと
に使えたりする。

沙来: 逆にコピーペーストすることで私たちにとって何かマイナスな点は?

颯太朗:自分でまったく勉強になってない。

麻衣: 全然自分の頭を使わないから調べても入って来ない。自分のためにならない。

萌:  私は、著作権に関わったりすると悪いということを知らずに
当たり前にそれでいいことのように使ってしまっている。

■時間節約か、自分の思考訓練か
沙来: ネガティブな点も出てきましたね。最近あったTV番組で知ったのだけれど、
    読書の感想文をネットにアップしてる大人の方がいました。
    その人は「子どもたちにネットの感想文をそのまま写させることで自由な時間が
    できるから子どもは遊べる。子どもにとって成長できるいい機会を与えられるか
    ら感想文に時間を割く必要はない」と考えておられたのだけれど、どう思いますか?

麻衣: 確かに考える時間が減って遊ぶ時間がもっと使えるかもしれないけれど、 
若い時に書く練習も必要だと思うから、遊びだけが小さい時にすることじゃない
と思う。勉強する時はする、遊ぶ時は遊ぶ、でやれば別に問題はないと思います。

萌:  一人のものをみんながコピーしてしまうと同じものになって、
その人独自の考え方がわからなくなる。同じものばかりになる気がします。

颯太朗:おそらくその人は読書感想文がつまらなくて時間の無駄だと、僕もそう思うんで
すけれど、まがりなりにも宿題として出ているのだから、そこは手を抜かないで
ちゃんとやらないといけないと思います。

沙来: 逆に遊ぶ時間を沢山与えることで、何かいいこともあると思いますか? 
それと宿題は自分でやるべきだとみんな思いますか?

颯太朗:日本の子どもは、ただでさえ勉強時間が世界の中でも少ない方なのに、 
もっと遊ぶ必要はないのではないかと思います。

沙来: 遊びではなくても、宿題のかわりに自分の興味のある星座を見るとか、 
自分が興味のあることを極められる利点があるかもしれないね

萌:  限られた時間のなかでうまく時間を使う方法を学んだ方がいいと思う。

■時間節約か、自分の思考訓練か
沙来: 時間短縮のためにインターネットを使う現状と、ちゃんと宿題をやった方がいい
    と思うのは矛盾していますね。そのあたりは皆さんはどうしたいと思いますか。

麻衣: ある程度自分のなかで制御して、ここまではやっていいけど、ここからは
いけないという範囲があると思います。他人がしてくれたものを写して自分が
やりましたと提出して、それで満足しているのは私にはできない。
インターネットはどこまでも何でもできてしまうから、そういう線引きが大事な  
んだと思います。

萌:  早く調べられるメリットを生かして、でもそれだけではなくて自分の頭で考えて、  
自分の書き方に変えてまとめ直す方がいい。

颯太朗:いくら時間短縮ができるといっても、勉強や宿題はしっかりと時間をかけて     やるべきであって、そこまで時間を短縮して遊ぶというのはよくないことです。

■利便性の裏にリスク
沙来: ではネットの危険性に焦点を当てていきます。
    ブログを見るのは匿名性があるかもしれないけど履歴が残ります。
    危険性は薄いけれどブログを見ることにリスクを感じていますか?

萌:  私は、例えば地元の子どもたちで最近連絡を取っていない人の近況を見るという
意味でブログを見ている。だからそれでリスクを考えたことはないです。

沙来: ただ見ているだけだから大丈夫だなって?

萌:  それが正直な実感。

沙来: それはどうにかしなければいけないという気持ちはありますか?

萌:  言われて今そうだなと思ったくらいです。

沙来: ネットの便利さばかりに頼っているという感じははありませんか?

麻衣: ほんとに頼ってるなと常に思う。リスクがあるのは感じていて、
アドレスも悪用されるかもしれないし、迷惑メールとかもあるし、
そういう意味ではリスクは感じても対応できていない部分があります。

萌:  私はさっきリスクを感じていないと言いましたが、去年、ある学校の裏サイトを見つけて、正直いい掲示板ではないのですが気になったので見てしまいました。その後で、友だちに「それはアクセス解析がついてるから、誰か見たかばれたら大変かも」と言われすごくあせって怖くなりました。
けっきょく私はアクセス解析のボタンを押して勝手に取っちゃって、
アクセス跡は消えたからいいかな、でも危なかったと思ったことはありま
した。よく考えると確かにリスクを感じるべきだと思います。

沙来: 颯太朗くんは本を買う時に個人情報を載せますね。それは大丈夫だと
信じて使っていますか?

颯太朗:そんなに頻繁に使うわけでもないので大丈夫かなと。

沙来: どうにかしなければいけないと思いますか?

颯太朗:いや、そのアクセス解析で向こうにわかってしまうのもあまり考えたことがなかったです。    

■向こう側で見られている
沙来: アクセスの跡を消去すればいいと思うかもしれないけど、今後手動でなく
    ハイテクなことになればもっと大きいリスクがあるわけだし・・・。

萌:  我が家でよく親に言われるのは「みんなが知っているサイト以外は使うな」。
それがすごく印象に残っているので、本を買う時もなるべく大手の有名な安心
できるところを活用する。ブログも見ないとまでは言えないけれども、
安全が保証されている人のものやサイト以外は見ないようにしている。

麻衣: 私はまだリスクにどう対応するか全然わからないんだけど、とりあえず
ヘンなことはしない。

沙来: ヘンなことって、書き込みとか?

麻衣: そうですね。自分が不快に思うことは自分もしないとか・・でも今後はリスクを 
考えないと。今ほんとうにネットだけでしか情報を得られなかったり、それだけ   
でしか生きていかれなくなる気がするからピンチを感じています。

颯太朗:向こうから見られるっていうのがどうもよくわからない。我が家は詳しい人間が 
皆無なので特にそういうことはしてないんですよ。

沙来: アクセス履歴に残ることを知らなくて、でもそれは仕方がないということ?

颯太朗:必要悪だと思う。

麻衣: リスク回避で私がしていることはその程度で、それだけではダメなことに
気がつきました。今後対応していきたいと思います。

■ネットなしの生活は不可能
沙来: 今まで出てきたのは、情報を得たり、ブログで友だちの情報を知るとか、
    時間節約ができるとか、ポジティブな点がたくさんあるんだけど、一方で
    リスクを考えないというのは、私だったらそれは矛盾点ですね。
    今後は自分で自分の情報を守ってリスクを避けないといけないと思う。
    大手のサイトを使ったり、必要最低限のネットを使ったりとか・・。
   
麻衣: 例えば情報を鵜呑みにするというのもリスクの一つであると思うし、それらを
    常に考えながら利用していかないといけないと思います。

萌:  インターネットやITというのは、もう今の時点で無くすことはできない。
すごく頼っているから無くすのではなく、どう向き合っていくかです。

颯太朗:インターネットを使う限り、どうやってもリスクは負うものだし、それを
無くしながら使うのは無理な話だと思う。なるべくリスクを負わないように、     これからも静かに平和に使っていきたいと思います。

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先生には“1”がつかないの?

先生には“1”がつかないの?
2008/07/09               川口 洋平(18)

 相次ぐ教員の不祥事、教員の指導力を一定に保つために導入された教員免許更新制度。一連の動きを見ていると、出来の悪い生徒にはすぐ ” 1 ” をつけるのに、教員には通信簿がないのかと思えてくる。

 結果がすぐに出ない教育という現場に携わる教員の評価は確かに難しい。教員を評価するためにはどうしたら良いのだろうか。

 教員評価制度は各都道府県によって若干異なるものの、学校の責任者である校長が各教員を評価する場合が大半を占める。しかし、「実際の授業や生活指導を全て見ることのできない校長になにが分かる」「報告書を書くので雑務が増えて教育活動に専念できない」など不満の声があがっている。

 経済界や財界からは、教員にも能力給などの市場原理を適用するべきだという意見もある。

 宮城県の小学校に勤める土屋聡教諭( 43 )は、教員評価制度導入によって、本来の教育活動ができなくなるとして、評価制度に反対する団体『教員評価制度を許さない会』で活動している。

 教員評価制度が導入された現在、「クラスが上手くいっていないから相談がある」と評価されてしまうことから、同僚の教師の間でもお互いの弱みを見せまいと、相談さえできない状況だという。

 「先輩の教員につまずきやすい単元の効果的な指導法についてアドバイスをもらうことは、よりよい教育を目指す有効な手段。お互いに悩みを打ち明け、協力することなしには良い教育はできない」と評価制度を導入するだけが、教員の質向上につながらないと主張する。

 さらに東京都や大阪府では既に評価結果が給料に反映される評価制度が導入されている。土屋教諭は「給料に評価が反映されてしまうと、さらに悪循環を招く。教師としては評定に響くので問題児を引き受けたくないし、当たり障りのないことしかできず、本来の教育ができなくなる」と嘆く。

 東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授によると、実際の教育活動に力を注げないなどの理由で、ある地域では新規採用教員の3割が1年でやめてしまったという。

東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授

 つまり、評価が厳しくなるにつれて教育活動に熱心になるよりも、自分のタスクをこなすだけの、サラリーマン教師が増えるということだ。

 そこで、管理職による評価だけでなく、実際に授業を受けている生徒が評価するという動きもでてきた。

 東京の大東学園高等学校は 2003 年に、教師、生徒、保護者で構成される三者協議会を設置した。生徒が授業アンケートに教員への意見を記入し、先生が悪い点を直すという生徒評価をする。同校校長の池上東湖先生によると、 自分自身の授業について 「しゃべるときの語尾をはっきりしてほしい」といった今まで出なかった意見が生徒から出てくるようになり、教師も授業の改善を行っているという。

 三者協議会では、他にも年に数回、代表生徒約 60 名と教員、保護者が話し合う場を設けている。「制服にブルーのワイシャツを許可して」といった生徒の要望もその問題点と妥当性を3者で話し合う。学校は先生に言われたことを守る場ではなく、学校を 協 同で作り上げて行こうという取り組みだ。

 勝野准教授は、教員を評価するより批評をしていくことが大切だという。生徒が教師を評価すると、生徒がお客様のようになり、生徒にあまい教師が高評価を得て、厳しい先生が低い評価を受けるようになることも懸念される。

生徒からの評価もただの数字のアンケートだけではなく、なにがいけないのかというアンケートをとって、それを生かすということが重要だと言う。

 学校を良くしていきたいという気持ちは生徒も教師も同じだろう。「良い学校」というのは、生徒、教師によって様々だろうが、お互いの目指す「良い学校」に向けて議論を重ねていく。そして、教員に問題があれば、教員を評価するのではなく、教員にアドバイスをする。 先生には1をつけないで、「こうしたら2にあがるよ」と生徒が教えてあげればいい。教員評価を制度化するまで至らずともそのような方法があるのではないだろうか。

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教育

教員評価制度から見る学校づくり

教員評価制度から見る学校づくり
2008/07/09               島田 菫(15)

 終業式の日、生徒たちが少しばかり緊張した顔で先生から「通知表」を受け取る。誰もが経験したことだろう。

 年齢を重ねるごとに通知表の価値は重くなっていく気がする。小学生の時は、通知表を見た時の一喜一憂はその先にある長期休暇の期待にかき消されてしまっていた。中学生、高校生と年齢が上がるにつれ、自分の成績を周囲と比較し、優越感に浸ったり劣等感にさいなまれたりした。

 最近、もう1つの通知表が配られる学校が増えてきている。この通知表は生徒が先生から受け取るものではなく、先生が生徒から受け取るものだ。この、「もう1つの通知表」を制度として取り入れる動きが起こっている。  

 「教員評価制度」は、生徒という教わる側の視点から教師の授業を評価する制度だ。生徒が授業を評価することは、授業の改善につながるから良い制度ではないか、という人も、きっと多いだろう。

 しかし、このたった6文字の制度に怯えている教師がいることを知っている人は一体どれだけいるだろうか。教師が怯えている理由は、この通知表の結果を給与に反映させる、という点が盛り込まれてしまうかもしれないということだ。評価するのは子供。一人一人の子供の評価に教師の生活がかかっている。

 宿題を出さず、テストは簡単、授業は半分遊びのようなもので、いつもすこしふざけているような印象を与える教師。一方、毎日問題集を一ページずつ進めるように指示し、授業の密度が非常に濃く応用的な内容も取り扱い、標準より若干高い難易度の試験を出す、非常に厳格な教師。どちらの先生が親しみやすいかと聞かれたら私は前者を選ぶだろう。しかし客観的にみてどちらの教師が優れているか。

 誰から見てもだめな教師もいるかもしれない。しかし、その教師にも人生はあるし、家庭もあるだろう。一人の人生を狂わすかもしれないという重大な責任を子供たちに負わせてしまっていいのだろうか。生徒がこのことを自覚したとき、彼らは正当に評価できるのだろうか。

 他にも問題がある。『教員評価制度を許さない会』の土屋聡氏に取材をしたところ、教師への悪影響をこう指摘した。「行政側がこの制度を作る理由は、子供のためではなく、教員評価制度の導入によって各学校が活性化され、自主的な学校改革が進めば、行政から各校への指導をする必要が減る、つまり、行政の教育費の負担を削減できることにある。それに教師はマイナスの評価を受けると不適格というレッテルを貼られ、排除される。これでは、脅し、またはいじめを正当化する手段として使われかねない。教育はすぐに成果がでるものではないのに、短期間にある側面だけで教師を評価することは子供に対して無責任だ。」

 一方、東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授は取材の際、「生徒が教員を評価するような制度は法律ではない形で作るべき。ただし、取り入れ方にはきちんとした考えが必要だ。教師をランク付けし、それを給与に反映させることはただの脅しでしかない。それでは教師は給与を上げるための授業ばかりをするようになる。教師が批判される中、評価が給与にじかに響いてしまうことが怖くないはずが無い。生徒からの関心を得るための授業になってしまう。」と言う。もしそうなってしまえば、これは教育現場の崩壊につながるだろう。

 生徒からの評価が、給与に反映されることに関して私は強く反対する。なぜなら一切自分の感情抜きで自分の教師を評価することができる生徒はおそらく皆無に近いからだ。給与が生徒からの人気で決まってしまう教師にも、先生たちの人生をだめにしてしまうかもしれないというプレッシャーに耐えなければいけない生徒たちにも、給与に評価が反映されるという制度は息苦しいだけだ。

 だが、この「給与反映」という点さえなくなれば非常に素晴らしい制度だと私は感じる。先生と生徒が共に一つの授業を作り上げて行く、というある意味教育の理想とも言えるものがこの制度で実現されるのだ。

東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授

 勝野准教授は「子供は毎日授業を受けている。管理職の先生や業者の査察の何倍も正しく授業を評価できるだろう。」と言う。授業の良し悪しはやはり受ける生徒本人が一番正確に評価できるのだろう。

 さて、ここまでの文を読み、「どうやって生徒が先生を評価するのか」の疑問が浮かんできた人もいるだろう。

 一番わかりやすいのはアンケートだろうが、ただ ○ × をつけるようなアンケートではいけない。これでは教師を追い詰めてしまうだけだ。「外国では顔のマークを使って評価しています。笑顔から泣き顔まで使用し、沢山の観点を評価します」と、勝野准教授。だが、これでも「泣き顔」の多い教師は教育現場から排除されてしまいかねない。

 ここで紹介したいのが、生徒、保護者、教師の三つの立場から代表が集まり、それぞれに意見していく「三者協議会」という制度だ。この制度において重要なことは、出席する3つの立場の人々がすべて対等であるということだ。

大東学園高等学校、池上東湖校長

 この三者協議会を実施している東京都世田谷区にある大東学園に取材した際、池上東湖校長は「生徒も先生も三者協議会への参加が非常に積極的で、お互いの意見をしっかりと発言できている。」という。生徒の意見を教師、さらには学校にも反映させるためにはこのような制度は不可欠だろう。

 しかし、私は三者協議会を教員評価制度のためだけに利用するのは非常にもったいないことだと思う。せっかく生徒が保護者、教師と対等に話せる場所を与えられたのだ。この協議会をうまく生かせば、誰にとっても居心地の良い学校となるだろう。   ちなみにこの大東学園の制服のワイシャツの色はブルーも許可されている。これも生徒側が「色つきのワイシャツを許可してほしい」と提案し、三者協議会での激しい議論の末、ブルーに限り許可されたそうだ。ホームページの写真に載るブルーのワイシャツを着た生徒たちの生き生きとした笑顔は自分たちの意見が学校に聞いてもらえたという喜びから生まれるのだろう。学校から言われるまま白いワイシャツを嫌がりながら着ている私に、彼らのような笑顔はまぶしく見える。それが、ひどく悔しくもある。

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教育

「教員を評価するということ」

「教員を評価するということ」
2008/07/09               佐藤 美里菜(16歳)

 みなさんは「教員評価制度」というものを知っているだろうか。

教員評価制度とは名前のとおり教員を評価する制度である。ただし、教員を評価すると言ってもさまざまな評価方法があり、さまざまな問題もある。

 まず、教員を評価するには「生徒が教員を評価」「校長先生などの管理職が教員を評価」「教員同士で評価」という主に3つの方法があるようだ。しかし、生徒が教員を公正に評価することは可能なのだろうか。

東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授

2008 年 4 月 7 日に東京大学大学院教育学研究科の勝野正章准教授に取材したところ、「『保護者を含めての協議会形式』や『答えやすいアンケートなどで集めた意見を教員の中で議論する』といった方法なら生徒が教員を公正に評価できる」と言う。ただアンケートで意見を回収するだけでなく、意見について「議論する」という過程が重要だ。教員たちの中できちんと意見を吸収し反映させようとしなければ意味がない。なぜならば、勝野准教授が言う通り、授業をほぼ毎日約6時間受けている生徒たちの授業に対する目は本物だからである。

 しかし、この制度に反対する人も少なくない。 5 月 16 日に取材した、小学校の教員でもある『教員評価制度を許さない会』の土屋聡氏は「マイナスの評価を受ければ不適格だとレッテルをはられ排除される恐れが高い」と言う。本来お互いが補い合って子どもを教育するべき教員同士がこの制度によってギスギスしてしまうのではないか、という不安もあるようだ。

 果たして、教員の仕事を企業などのように「業績」として評価してよいものなのだろうか。

 土屋氏は「子どもを教育するにあたって1年で結果を出すのは難しい。よって教員を評価するのは非常に難しい」と話す。また、はっきりしたデータとして出すことができないのもこの制度に反対の理由のようだ。

 また、勝野准教授は「教育を成果主義で行うと、いわゆる “ サラリーマン教師 ” が発生し、消費者とされる子どもやその保護者の顔色を伺う教育になる」とデメリットを指摘する。

 しかし、実際にこの「教員評価制度」を導入している大東学園高等学校では、 2003 年から保護者を含めた 年に 2 回の 「三者協議会」と「アンケート」という形で教員を評価している。「子どもが中心になる学校作り」のためにも生徒の意見を積極的に取り入れている。生徒たちに発言させることによって教員同士では言いづらかったことが伝わったり、授業に対する生徒たちの思いが分かると池上東湖校長先生は言う (5 月 6 日取材 ) 。三者協議会やアンケートで、生徒たちの意見によって教師が気づかされることは少なくないようだ。

 要は、教員を評価する「方法」が重要であり、保護者や生徒と教員はもちろん、教員同士のコミュニケーションをもっと増やすことが必要なのだ。「学校をつくるための1つの習慣として子どもの意見を取り入れるべき」と勝野准教授は話す。また、大東学園の新入生 62 %が「楽しそう」という理由で入学したようだ。その背景には「三者協議会で生徒の意見を反映させたことによって、生徒たちが活き活きした学校生活を送る結果になったのではないか」と池上校長先生は言う。

 教員評価制度を導入する際は、「生徒、教員、保護者間の信頼できる関係を築くこと」「どのような評価方法ならその学校が目指す『良い学校』になるのか」をきちんと考えたうえで、実施することが重要だろう。

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社会 国際

全然違う!日本と海外の学校

全然違う!日本と海外の学校
2007/11/10                 椎原 伶香(10)

 私は生まれた時からずっと海外に住んでいた。 10 歳で日本に帰国したとき、日本の学校と現地の学校の違いに興味を持ち、調べることにした。

 私が住んでいたシンガポールと友達が住んでいたアメリカの給食と運動会の違いを比べてみた。私が通っていた学校も、友達が通っていた学校も現地の公立校だ。

 アメリカもシンガポールも休み時間にお弁当を持ってきて食べてもいいし、買ってもいい。休み時間は学年によって違う。アメリカの学校はほとんどの人がカードで買っていて、お金で買う人もいる。そして売っている物は曜日によって違う。

 シンガポールの学校は、中国人、マレー人、インド人、がいるので給食のメニューは、マレー料理、インド料理、中華料理、そしてスナック菓子もあって、自動販売機もあった。コンビニみたいにペットボトルのジュースも売っていて、それは必ず 1 ドル以下だ。文房具や本も売っていた。

 シンガポールにいた時は、お茶を持って行っていたし、その他はほとんどお金で買っていたので、日本に来てお茶もお金も持っていけないことを知って、とてもびっくりした。日本の給食のように一緒に同じものをみんなで食べるのより、シンガポールやアメリカみたいにいろんな物を食べられる方が絶対いいと思う。

 次は運動会のことを比べてみた。アメリカには運動会はないそうだ。シンガポールの運動会は、ドッジボールとかけっこぐらいしかない簡単な運動会だ。日本は休日にあり、親も来るし全体競技もあり、まるでお祭みたいだ。

 他の国々はどうだろう?調べてみると、カナダにはなかった。オーストラリアはシンガポールとほとんど同じだ。

 運動会の事を調べてみて、海外には日本と全然違う所がたくさんあることに気付いた。運動会がない国があるのを知ってとても驚いた。私の個人の考えは運動会があったほうがいいと思う。なぜなら年に一度どこの国でもスポーツフェスティバルがあると楽しいからだ。

 運動会と給食のことを調べてみると、国によって色々違う所があり、とても驚いたし、興味深く感じた。その違いが生まれるのは、国々の文化が現れているからだと思う。色々な文化を感じることができて、今回調べた国と違う国についても、もっと知りたいと思った。これからも、他の国々と日本との違いについて考えていきたいと思う。

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座談会

多様化する修学旅行

 修学旅行といえば、学年全体で行き先は同じ。行き先は決まって京都・奈良。夜は枕投げをし、昼間は仏閣見物をしお土産を買って帰る…。
  ところが今、中国、韓国をはじめとする海外への修学旅行や、2~3人のグループに分かれて農家に宿泊するなど、修学旅行が多様化してきている。 


曽木颯太朗(15)、三崎友衣奈(15)、藤原沙来(17)、大久保里香(15)、 川口洋平(17、司会)
2007/06/01

洋平:まず、自分の学校ではどんな修学旅行をしているのかを教えてください。

颯太朗:今年の秋に四泊五日で、三重の鳥羽と奈良・京都に行きます。これはもう数十年前からの恒例だそうです。

友衣奈:私の学校では、高二のときに北海道に一週間いくのですが、とても自由で、バスで現地に行って、勝手に作ったグループでまわります。

沙来:うちの学校もかなり自由で、修学旅行とは呼ばず、「地域研究」といっています。内容は毎日自由行動で集合写真撮る時だけ拘束されます。目的地に行ったらそこで解散、ホテル集合が毎日の基本です。

里香:冬に東北の方へ行って、スキー合宿のような修学旅行です。自由行動とかはあまりなくて、スキー研修がメインです。

■修学旅行の楽しみは?

洋平:決まったコースをやるところと、けっこう自由な修学旅行に分かれましたですけど、修学旅行の楽しみってなんだと思いますか?

友衣奈:やっぱり夜だと思います。みんなで集まって遊ぶとか。

里香:夜の雑談みたいなのが好きですけど、あんまり夜遅くまで話していると、先生に怒られるのがちょっと・・・・・・。

颯太朗:僕もやはり夜ベラベラとしゃべります。

洋平:どうしてそんなに遅くまで話すくらい楽しいのかな。普段でも話せない? 

友衣奈:修学旅行だとみんなちょっとテンションがあがっているから、けっこう、ぶっちゃけみたいな話が多くて、それがまた楽しい。

洋平:友だち 2 、3人で卒業旅行に行くのと修学旅行は何か違うものがある? 

友衣奈:確かに卒業旅行の方が自分たちで全部手配しなきゃいけないしから学ぶことはあるけれど、修学旅行では、ご飯を一緒に食べる時はちゃんとお皿を片づけるとかみんなでやることが多いので、団体行動というのが重要な課題だと思います。その課題が魅力なのかな?

洋平:そもそも修学旅行には、集団生活して楽しむ以外に、歴史的な建造物見て教養を高めるような目的があるらしいんですけど、最近はわりと自由で遊びの要素が強い修学旅行が多い傾向にある。となると最近の修学旅行に意味はあると思いますか?

友衣奈:例えば東京にいただけだったら、高いビルしか見られないけど、沖縄や北海道に行けば、もっと広い土地やシーサーみたいな現地ならではのものとかも見られるし、気候の面でも蒸し暑いとかとても寒い空気も体感できる。写真だけではわからないことに触れるだけでも、充分学ぶことは多いと思います。

沙来:私の学校は自分で行く場所を決めて行く目的を考えるので学ぶことはあると思います。

里香:奈良とか京都とか定番な場所に行くのもいいと思うけれど、そういう定番じゃない場所でも事前に調べて行けば学べることはいっぱいあると思います。

颯太朗:京都や奈良に教養を高める目的で行きますけど、でもそんなことよりも、中高の思い出づくりみたいな感じでいいんじゃないかと思います。

■従来とは違う修学旅行に興味ある?
洋平:集団でまわるだけではなくて、2、3人のグループで好きなところに行くとか、自分の興味のあるところに行く修学旅行に行ってみたいと思う? 例えば北海道の農家に何グループかに分かれて農業体験をするとか。 

友衣奈:農業体験とかは将来の職業に関して参考になれば、ということで行くのでしょうけれど、それはまた修学旅行とは別で行ったほうがいいかな。修学旅行はみんなで楽しくまとまって行きましょうみたいなのだと思います。

沙来:うちの学校は中学校の時に農業体験で越後にいきます。そのほかにも平和学習として広島と長崎に行くのと、国際理解として、福島のブリティッシュヒルズへいくというのもある。それも分散して自由行動です。私は型にはまった修学旅行はよく分からないので、何とも言えませんですが、越後に農業体験に行った子たちは堅苦しかったり、面倒くさかったり、辛かったりするけれど、それを中学生の時に、楽しさと同時に学べるのが貴重だと思う。

颯太朗:農業体験とかは修学旅行としてあまりおもしろくない。京都や奈良に行くのもはっきり言って、そんなにおもしろくはないけれど。 

里香:私も中二の時に研修旅行ということで農業体験に参加したけれど、修学旅行とは別にしたほうがいいと思います。学びと遊びと分けたほうがもっと充実したものになるんじゃないかな。

洋平:また違う例で、主に地方の学校に多いらしいんですけど、高校生であれば修学旅行と大学見学を兼ねて東京に来る。そういう修学旅行どう思いますか?

友衣奈:それはちょっと。確かに大学とか見られるのは楽しいと思うんですけれど、大学の授業に参加してみるのは修学旅行とは別で、そういう計画の旅行で行った方がいいと思うんです。

里香:私もわけた方がいいと思います。別に東京に行きたいと思っている人ばかりじゃないので、大学の見学とかは、個人的に行けばいいと思います。

沙来:地方の人のためにはいいのかなと思うので、修学旅行という名称を変えればいいんじゃないかなと思います。

颯太朗:地方の人たちが修学旅行で東京に来るのはとってもいいと思うんですけど、大学に来るのは「これから大学受験だから最後に遊ぶぞ、思い出を作るぞ」という時に何となく気分を重くするような気がするんですけど。でもそういうのを見たい人たちもいると思うので、自由時間とかに一部の先生が「大学に行きたい人はついておいで」みたいな感じで、修学旅行の一部としてやるのはいいんじゃないかと思います。

■修学旅行は遊びか学びか?

洋平:修学旅行って一応名目上は学び。だけど実際はどうなんでしょうね。

友衣奈:学びもあるけど、けっこう遊びも大切。今までガチガチに拘束してきた学校が、修学旅行になると突然とても優しくなる。「自由にしていいよ」。言い換えれば「遊んでいいよ」となる。だから修学旅行は最後に友だちと楽しむというのが大切なんじゃないかなと思います。

里香:修学旅行に行く前はなんかワクワクするんですよ。普段学校へ学びに行くっていったらあんまりワクワクしないじゃないですか。だから現状では修学旅行は遊びがあって、学びが付け足しになっている気がします。

沙来:私は逆に文字通り学びが主体で、みんなその開放感に浸って楽しんでいるものだと思います。

颯太朗:純然たる遊びだと思うんです。先生たちも口では「よく見とけ」とか言いながらも、生徒を遊ばせているようなもので。例えば京都や奈良に行ってお寺を見て、すごいなと感心する生徒もいれば、あんまり感心しないで、宿で遊ぶかとかそういうことを考える生徒もいる。だから結局は人それぞれ。

洋平:だいたい修学旅行の料金っていうのは平均5、6万円って言われていて、普通に行くパック旅行の2倍から3倍ぐらいのお金がかかる。それは大人数で行くし、添乗員さんがいっぱい付くとか、後は事前学習とかの費用とかでそれくらいかかっちゃうらしいんですけど、その遊びにそんなお金を親に出してもらってわざわざ遠くまで行く必要ある?

里香:学校の行事として一応歴史的なところや学べるところに行かせて、「学びも大事だけど遊んで来いよ」みたいな感じで、親にもその費用を出してもらってるんじゃないかなと思います。

友衣奈:確かに遊びのために5、6万もっていうのもあると思いますけど、お金を払った分、先生も多いし、添乗員もいるし、安全を保証するためのお金だと思っていればそんなに高くはないのかなと思います。

颯太朗:親の世代も、修学旅行はほとんどが体験しているわけです。で、親たちも友だちと楽しんでいたから、子どもたちも自分たちと同じようにやっぱり楽しむものだと自然に考えている。

■修学旅行に海外はあり?

洋平:なるほど、親にもちょっと意見聞いてみたいところですね。ところで私立の学校を中心に海外へ修学旅行に行く学校が増えている。近場だと韓国や中国、遠いところだとヨーロッパ。もちろんそれに比例して費用はウン十万かかるし、ヨーロッパへ行くとなると一年生の時から積み立てして、 50 万くらい必要な修学旅行も出てきているらしい。海外に高いお金を出して行きたい?

友衣奈:ヨーロッパなんて飛行機も 11 時間くらいかかるし、ウン十万は高いかなと思います。そんなにかかるんだったら家族で行けばいいし。私は国内の方がまだ安全だし言葉も通じるし、いいと思います。

沙来:海外に行こうと思えば大人になったら行ける。国内だと私が行った東北とかは自分で行こうと思わないし、歴史的建造物も興味なきゃ見ない。だから修学旅行は貴重な機会だと思うし、それを学校側が提供してくれるならなにか体験できればいいなと思うので、海外にお金をかけてまで行く必要はないと思います。あと、公立との差も出てきちゃうからそれも問題かな。

里香:日本国内を旅行するだけでもパックツアーの二倍もお金がかかると言うのに、海外へ行ったらもうそれこそとんでもないお金がかかる。海外に行きたければ個人的に行けばいいし、日本のこともよく分かっていないのに修学旅行で海外へ行ってもあんまり意味がないかなと思います。

颯太朗:海外は日本に比べてあまり治安は良くない。国内の修学旅行の何倍ものお金かけても、安全とか保証できないわけですよ。それを考えると海外に行くならもっと平和で安全な日本のなかでのんびりとやった方がいいんじゃないかと思います。

■理想の修学旅行はどういうもの?

洋平:海外にはわざわざ修学旅行で行きたくないみたいな、それはみんな共通なのかな。じゃ自分がもし自由に決めていいって言われたらこんな修学旅行行きたいみたいなの、教えていただけないでしょうか。

颯太朗:僕は拘束されるタイプの修学旅行で、一週間まるまる京都に行きたいです。いくつかのグループにわかれていろんな名所をまわる。京都の郊外の比叡山などにも足を伸ばしていいというようなもの。

友衣奈:北海道、沖縄、京都などとたくさん選択肢があって、そのなかで行きたいところまではみんなで行って、着いたら自由行動という拘束されない旅行。修学旅行だから学ばないのはまずいので課題はちゃんとある。ただお金の面とか自分たちで考えて行動できる修学旅行が楽しいと思います。

里香:場所はどこでもいいって感じです。ただ最後の活動なので、みんなで修学旅行に行って、同じところに泊まって楽しみたいなって思います。歴史的名所もみんなで見たらきっと一人で見るよりは楽しいと思うので。

沙来:うちの学校はまったく自由。行く前に事前レポートとしてテーマを先生に提出。修学旅行中は自由に課題に添った旅行を自分で組み立て、終わった後にレポートを出すというもの。だからみんなの意見を聞いていると、現状維持が一番いいかなと。ただみんなで一緒に行動する機会があまりないので、みんなが嫌だと言っている集団行動のきつさも体験してみたいなって気がします。

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教育

真価発揮されなかった「ゆとり教育」

2005/5/19                 川口 洋平(15

 昭和52年から約20年間、新学習指導要領、週休2日制、総合学習の導入など試行錯誤を重ねられてきた「ゆとり教育」。今、この「ゆとり教育」が大きく見直されようとしている。
 「ゆとり教育」は、従来の知識を単に覚えこませる「詰め込み教育」に代わる教育として、自分で考え、生きていく力を教育する目的で始められた。
 しかし、この「ゆとり教育」という言葉が、この教育を受けている小中学生に、「なんとなく勉強しなくてもいい」というイメージを与えている。実際にチルドレンズ・エクスプレス記者が渋谷で、小中学生を対象に街頭インタビューをしたところ、「ゆとり教育の方が楽だからいい」「勉強をがんばらなくてもいいのではないか」などという意見が多数あった。
 そもそもなぜ「ゆとり教育」という誤解を与えやすい表現が用いられたのだろうか。「ゆとり」という言葉は、文部科学省の諮問機関であった教育課程審議会(現在の中央教育審議会教育課程部会の前身)というところで、「ゆとりある充実した学校生活」として使われたのが最初。ゆとりを持って、しっかり覚え、自分で考える。当初は、そういう意味での「ゆとり」だった。しかし現場に方針が伝わらず、 先生にも「一生懸命教えなくてもいいのではないか」という誤解が生まれ、生徒にも「勉強しなくていい」という誤解が生まれてしまった。また、「ゆとり教育」の一環である、新学習指導要領にも問題があった。内容が大幅に削減され、余計に「ゆとり」の意味が履き違えられる結果となってしまった。その結果、昨年の国際学力調査の結果で、日本の子どもの学力が前回に比べて低下してしまった。
 では「ゆとり教育」は失敗に終わってしまったのだろうか。塩谷文部科学副大臣に聞いてみた。「教育現場にゆとり教育の趣旨が正しく伝わらなかったのは、文科省にも責任がある。本来目指していたものが勘違いされ、間違っていたところがあれば、もう一度やり方を考えなおす必要があると思う」と述べた。
 しかし、これは間違えたですむ問題なのだろうか。街頭でインタビューした中学生は「ゆとり教育の一環である、新学習指導要領によって学校での学習内容が減ってしまったので、将来が不安だ」と言う。そこで先日、中山文部科学大臣がゆとり教育の影響で、学校での学習量が減った中学生に対し「学校だけで学んでいる人には申し訳なかった。学校だけで基礎学力が身につくようにしなければならなかった」と謝罪をした。 文科省では、ゆとり教育の方針が伝わらなかったため、方針を見直すようだが、ゆとり教育から脱する訳ではないという。
 新学習指導要領、教科書内容の増減など、年々教育内容が変化しているため、街頭インタビューを受けた中学生は「コロコロ方針を変えないでほしいと」言う。しかし塩谷副大臣は、コロコロ変えると言われるとそうではないと言いたいが、これが正しいというやり方がないため、試行錯誤をしていくしかないと言う。中央教育審議会で今秋にも、今後の教育方針が打ち出されるようだ。
 試行錯誤をして、よりよい教育方法を見出すことは重要だが、方法を模索している中で教育を受けている生徒のことをもっと考えるべきではないだろうか。
                                                         


子どもの勉強どうなるの?

2005/5/19                 島田 菫(12歳)

 「脱ゆとり」こんな言葉が聞こえ始めたのは、ごく最近だ。
 昭和52年から始めたゆとり教育の見直しが始まっている。理由は「学力が落ちた」。 国際学力調査で日本は読解力が8位から14位に、数学が1位から6位に。そこで文部科学省は以前から動きのあったゆとり教育の見直しに拍車をかけた。
 しかし、本当に見直しの必要があるのだろうか。たった2回のテストで勉強法を急に変えてしまってもいいのだろうか。順位は落ちたが他の国々と比べたらまだまだ日本は優等生ではないのか。
 私たちチルドレンズ・エクスプレス記者は、4月27日に文部科学省の塩谷立副大臣を取材した。「読解力や学習意欲が低下していることから、もっと学力が低下してしまうのではないかと心配する人が多い。それを踏まえて学習指導要領の見直しをしている」と塩谷副大臣は説明した。
 他にも学力を上げるために総合的な学習の時間を減らせという意見も出ている。それについて塩谷氏は、「総合的な学習の時間を評価しているところはたくさんある。特に小学校では評価が高い。中学校になると学力への心配があるから、評価が多少下がるが、ある程度の評価はある。学力が下がったから総合的な学習の時間をやめるという極端な方向にはいかないが、時数見直しの意見は多少あるかもしれない」と答えた。
  しかし、総合的な学習の時間はゆとり教育の象徴でもある。総合的な学習の時間を減らすことをきっかけにして、ゆとり教育は壊れていってしまうのではないか。そのようにコロコロと変わっていく教育に子どもたちはついていけるだろうか。塩谷氏は「コロコロ変えるという印象を与えているということは反省しなければならない。本当の意味のゆとり教育は自分で考え自分で努力できる力をつけることだ。それが間違って伝わったようなところがある。ゆとり教育は本当はこうですよと正しいやり方を話し合って答えを秋ぐらいには出すつもりでいる」と語った。 文科省では、ゆとり教育の方針が伝わらなかったため、方針を見直すようだが、ゆとり教育から脱する訳ではないという。
 秋の答えが、子どもたちのことを第1に考えた答えであって欲しい。

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