去る11月1日(日)15時から、コネクト渋谷で、7月27日~8月7日に参加した第10回国際青少年メディア・サミットと、8月22日に訪れた宮城県石巻市の「キッズ・メディアステーション」及び同市北上町十三浜の「浜人」取材の報告会が行われた。
記者、修了生、保護者、理事、スタッフ、ユースワーカー、そして関係者たち約30名が集まり、メディア・サミットに参加した記者が撮影・編集したビデオを上映し、パワーポイント・スライドを使ってプレゼンテーションを行った。
続いて石巻を訪れた記者の二人がそれぞれ7分間のプレゼンテーションを行った。
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被災地から全国へ広がる漁業の魅力
米山 菜子(18)
3年前の2012年、若者の目線から新しいスタイルの農業を展開する若い農家グループを取材した。農業と同じく1次産業の漁業から、6次産業化に挑戦している若者たちがいた。6次産業とは、農水産物の原料だけを提供する第1次産業から加工、流通、販売までを一体化する多角化の事業形態だ。一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンの面々である。彼らは、新3K「漁師をかっこよく、稼げる、革新的に」をコンセプトに集まった宮城県石巻市の若手漁師である。2011年の東日本大震災で、津波に漁船、漁具、作業小屋、そして自宅まで流された被災地から、漁師のイメージを変える一歩を踏み出し始めている。
フィッシャーマン・ジャパン代表理事である阿部勝太氏(29)への取材場所は、海がある石巻ではなく、東京の日本橋だった。阿部氏はフィッシャーマン・ジャパンのイベントのために石巻から東京に出てくることも少なくない。イベントを通して、漁師の魅力や自分たちの水産物を都会にいる人々に広めている。以前は海で採れた産物を直接あるいは加工して漁協に卸し、市場がきめた価格で販売していたスタイルを、自分たちで直接販路を探して、自分たちの水産物に見合う価格をつけることで漁師の魅力を「新3K」にまとめている。子どもたちが後継者として育つためには大いに影響する「かっこよさ」と、水産物に見合った収入が得られるための「稼げる」は、不可欠であったという。そして、最後の「革新的」には、ITや異業種の人々とのネットワークを駆使して販路を開き、地方からでもアクションを起こせるという思いを込めた。水産物のオーナー制度という制度も革新的な活動のひとつだろう。水産物に見合った価格で提供するため、地元だけにとどまらず、都会に出て多くの人々にまず食べてもらい味を知ってもらう活動が行なわれている。
今でこそ、阿部氏はフィッシャーマン・ジャパンの名を背負い、海がある十三浜と東京を行き来しているが、漁師になったばかりは今ほど意欲的でなかったと父である阿部浩(52)氏が語る。きっかけは、東日本大震災だったという。
8月22日に阿部家がある石巻市北上町十三浜を訪れた。塀には津波の爪痕がまだ残り、破損している部分も多くあった。ワカメやコンブ、ホタテを養殖している阿部家の船や漁具、作業所は流されてしまい、同じように被害を受けた近隣の5家族と手を取り合い、「浜人」という漁業生産組合を立ち上げた。そのような境遇から、漁師への想いが変わっていく息子の姿を父は近くで見ていた。「勝太は震災前には、親に言われたことをただやるだけだった。震災を機にいろいろ考えるようになったのではないか。震災を経て変わったな」。
フィッシャーマン・ジャパンは、毎月イベントを開催している。8月20日には東京の日本橋でカキやホタテの殻むきを実演し、都民に体験してもらい、それらを味わう会や、9月には川崎でバーベキューも予定している。イベントはまだ模索中で、様々な方向性のものを企画しているという。
阿部氏は、農家とも交流を持っている。 3年前に取材した宮治勇輔氏が代表を務めるNPO法人「農家のこせがれネットワーク」の活動からヒントももらったという。 阿部氏は最後に語った。「いつかもっと力をつけたら、農業と漁業で大きな『食』というテーマで連携することをやってみたい」。 農業も漁業も後継者は減少し、子どもたちに魅力を伝えていくことが難しくなっている。だからこそ、彼らのように若者の目線で1次産業界を盛り上げていくことは、日本の将来を支えるためにも素晴らしいことではないだろうか。 阿部氏は漁業の楽しさを次のように述べた。「手間をかけた分だけ美味しくなるんです。そして、提供したときにわかりやすく答えが返ってくる。そういう反応がもらえる職業って、あるようで意外とあまりないと思いますよ」。石巻の復興とともに新しいスタイルの漁業も前へ前へ進むことだろう。
※2012年に農業を取材した記事「若者の改革で変わる農業」は本ウェブサイトに掲載されています。
「明るい石巻」を見て!~被災者が語る石巻の今~
前田 佳菜絵(14)
2011年3月11日に東日本大震災が起き、それによる大津波や福島第一原子力発電所の事故も含めて東北地方は甚大な被害を被った。震災から4年半がたった今、被災地はどのように変わってきているのだろうか。今も被災地域で暮らす人々の目から被災地はどのように見えているのか。8月22日、津波で大きな被害を被った宮城県石巻市を訪れた。
JR仙石線石巻駅からタクシーに乗り北上川に沿って河口に向かった。運転手さんによると、石巻駅付近にも津波は到達し、ジュースの自動販売機の上にあがって助かった人もいたそうだ。
河口から4キロの川沿いにある石巻市立大川小学校跡を訪れた。大川小学校には地震直後に大津波が押し寄せ、児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった。校舎は壁や天井などが大破し、鉄筋コンクリートがむき出しになっていて痛々しい。教室があったであろう校舎はまだ原型が分かる程度に残っていたが、体育館や屋外の遊び場などはほとんどが流されてしまっていた。校舎の周りにはロープが張ってあって「立入禁止」の看板が所々に立てられていた。校舎の前には祭壇や慰霊塔が立ち、多くの人が訪れては手を合わせていた。
石巻駅から徒歩6分のところにある絆の駅「石巻ニューゼ(Newsee)」で毎週活動をしている一般社団法人キッズ・メディア・ステーションの子ども記者たちを取材をした。この「石巻ニューゼ」は石巻日日新聞社が設立したもので、震災直後の壁新聞が展示されている。この日は石巻に小学生のときから在住していたロシア人の女性、クハルチョク クリスティーナさんがロシア語のワークショップをしていた。
震災当時のことについて、山口莉子さん(小学6年生)は「妹とおばあちゃんとで車に乗っていた時に地震が起こったから、近所の人を乗せて近くの高校に避難しました。小学1年生だったから、当時はよく状況が分かっていなかったです」とぽつりぽつりと話してくれた。当時は大学生でアルバイト中だったというクリスティーナさんは「そのときは仙台にいたので津波は無かったですが、すごく揺れて怖かった。家族と連絡が取れなくて泣いている人もいました。寒かったからカイロを買ってきて、3時間ぐらいは屋外にいました」と4年前を思い出しながら語った。酒井理子さん(中学1年生)は震災直後は「アレルギーがあり、がれきに近づくと咳き込んでしまい困りました」と話した。
震災当時と今を比べて復興したと感じることはあるか、と聞くと山口葵さん(小学4年生)は「津波で大きな被害を受けたのに仙石線が開通したのが、すごいと思います」と言い、震災後に家族の勧めで一時ロシアに帰国したクリスティーナさんは「当時の光景と今の光景がまったく違う。がれきが片付いただけでも復興になっていると思います」と明るく話した。しかし、困ったように「仕事で海外の人と話すことも多いが、『日本製の商品は安全か』『原発の影響は無いのか』と尋ねる人が多いです」とも語る。山口葵さんは「もちろん震災のことは憶えていなければいけないけれど、テレビで津波の映像が流れると思い出してしまうから怖いです」と少し辛そうに語った。
これから復興のために何をすればいいだろう、という質問に「『石巻日日こども新聞』を他の新聞と一緒に配達してもらえば、もっと石巻の今を知ってもらえる」と山口葵さんは明るく話した。また、震災の被害をあまり受けていない人たちに向けて酒井理子さんは「石巻に一度来たら、何年かあとにまた来て復興した様子を見てもらいたい」、山口莉子さんは「実際に石巻に来てもらったほうが、その時の状況が分かってもらえる」、山口葵さんは「津波がきた時にどうしたらいいかなどを、東日本大震災で津波がこなかった地域の人たちにも伝えていってほしい」、クリスティーナさんは「身の回りに亡くなった人がいたらもっと悲しみは深かったと思う。震災のことについて話すのは辛いけど、震災に関心を持ってくれる人には当時のことを伝えなればいけない」と前向きに話した。そして、山口葵さんは「もう復興は始まっているから、『明るい石巻』も見てほしい」「震災の話をするとみんな暗くなるから、それが嫌です。復興が始まっているから、笑顔も戻していきたい」と笑顔で話した。
また、今年の春に大川小学校の校舎を残すか解体するかが議論されたことについて酒井理子さんは「私は正直に言うとどちらでもいいですけれど、その時のことを思い出すのが嫌、と言う人もいるから、写真に残し校舎は壊して新しい学校を建てていいと思います。でも、その時の状況は写真では伝わりにくいから、難しいです」と悩みながら語った。そして、山口葵さんは「地元の人は、震災のことを残したくない人もいると思いますが、震災を忘れてまた同じことが繰り返されるのは嫌です」と話した。最後にクリスティーナさんは、「震災を人ごとだと思わないで、普段から心の準備をするのは難しいと思うけど、知識としてでも知っておいてもらいたい。これからも震災の情報を広めていきたい」と真剣に語った。
東北以外にいて震災であまり被害を受けなかった立場からすると、いま石巻の人々が震災を「前向きに」捉えていたことは意外だった。テレビや新聞などの報道だけでなく、被災地に自分自身で行き、被災者に自分自身で話を聞くことで新たに分かることがある。被災者の声を聞くことで、私たちが被災地のためにできることが新たに見つかるのではないか。
by Mio Sakamoto (11)
It is almost three and half year since March 11, what a memorable day. At 9.0 on the Richter scale, maximum seismic intensity at 7, the earthquake hit in the east Japan. It named “The Great East Japan Earthquake.” This earthquake caused a huge tsunami and drowned towns at Sanriku coast. I went to those damaged areas, Ishinomaki and Onagawa on August 16th. The aim was to learn how the damaged areas look like from the children who live there. I conducted an interview for Children Reporters who work at The Kids Media Station at Ishinomaki.
First of all, I visited Hiyoriyama Park, Ishinomaki Port, Minato Elementary School and Onagawa Regional Medical Center (the old Onagawa town hospital.) Since Hiyoriyama Park is located at height, we could see a panoramic view of Ishinomaki city from there. There were landscape pictures taken before the earthquake posted in places. To compare with those pictures, it is clear that city landscape was dynamically changed. Buildings in the town disappeared sharply, resulting in almost vacant land in Minamihama Area and Kadonowaki Area. Sandbanks in Old Kitakami River got smaller than before because the tsunami flushed it out. A half destroyed building is still remained at Ishinomaki port. It was a pitiful sight.
Owing to the earthquake, Minato Second Elementary School (closed in 2013) unified to Minato Elementary School. On the site of Minato Second Elementary School, there were stone monuments commemorating closure of the school.
Although Onagawa Regional Medical Center was built at 18 meters height from the ground, the first floor of the building was flooded about 2 meters when the tsunami came. We saw many signs which indicate “tsunami attained at this point of height.” Also, small temporary housings still remain there. There were many things I couldn’t realize without going there.
After that, I visited children reporters in general incorporated association Kids Media Station to ask about the earthquake. Kids Media Station is an organization, publishes “Ishinomaki Hibi Kodomo Shinbun.”
When I asked how he felt when the earthquake happened, Ren Yaegashi (first year in Ishinomaki middle school) said “At that time, I was in fourth year in elementary school. So I was in school and I worried about my family members.”
Questioned about what he wants the town to be in the future, Hiroki Matsubayashi (first year in Hebita middle school) said “Since the tsunami hit our town, we could play only inside. I would like there to be more playgrounds” Also, according to Hinako Kimura (third year in Kadonowaki middle school), “After the earthquake, many stores in a shopping arcade were closed and became empty. So I hope stores would be opened again and become more bright.” Ren Yaegashi said “the stores are concentrated in the suburb area, I would like to make central area livelier.” Their opinions were mainly about town surroundings that have hugely changed from the tsunami.
When I was asking about whether the status quo of the city gradually approaches to their ideal, Yuuko Sakai (sixth grade in Kadonowaki elementary school) indicated that “It is approaching to the ideal. However, I don’t think the town became the ideal yet.” Ayaka Abe (sixth grade in Hebita elementary school) said “Minamihama area where Kadonowaki elementary school used to be there is now almost vacant area. The tsunami flushed almost everything out, there is grass only remained right now. That place is very dark because there are no lights, so I want to make that place brighter.” Hearing their answers, it seemed the area hasn’t recovered from the disaster or reached to the standard before.
What do they want people in other places to do is “I would be happy to if people in Japan will pay more attention to our town Ishinomaki and read “Ishinomaki Hibi Kodomo Shinbun.” On the one hand, there are reporter specified opinions there but on the other hand, there were opinions such “I hope many people will visit Ishinomaki and exchange with us.” (Kimura) or “I want the population of the visitors to increase than now. I would like them to know more about the earth quake.” (Abe). As stated above, there were many wishes for people to visit Ishinomaki.
Finally, I asked are there any lessons from the earthquake for people in Japan. Yaegashi said “People in Ishinomaki became more prepared for disasters than before. So, I would like people in other areas to be prepared for disasters.” Hinako Kimura also said “Since we can’t predict when earthquakes happen, I strongly recommend preparing for those unforeseen happenings.” Sakai indicated “It would be better to think about how to manage and survive from the earthquake on daily basis.” They told us their lessons from the earthquake.
As I visited in Ishinomaki, I felt an atmosphere which I couldn’t gain only watching documentaries or news through a screen. Also, I noticed there were many things I could never know as long as I could ask them who survived from the earthquake directly. If more people know about the earthquake by visiting the spot, it would be helpful for people to prepare for earthquakes whose epicenter is directly below Tokyo or Nankai Trough earthquake. To gain more knowledge about earthquakes will prevent people and cities from damaging.
住民のため、地域を伝える「地域新聞」
米山菜子(17)
8月16日、真夏にも関わらず肌寒かったこの日に宮城県石巻市を訪れた。東日本大震災最多の被災者を出したこの町で、被災者でありながら、「伝える使命」を背負い情報を発信し続けた人々がいる。震災直後、避難所に張り出した「壁新聞」が広く評価された石巻日日(いしのまきひび) 新聞社だ。社員28名(そのうち記者は6名)で、宮城県石巻市、東松島市、牡鹿郡女川町の2市1町をエリアとして発行している。地域新聞のありかたについて、武内宏之常務(57)に取材した。
「地域の回覧板たれ」
石巻日日新聞を創刊した山川清初代社長の言葉だ。まるで回覧板のように、地域住民に必要な情報を届ける地域新聞でありたい、という思いが込められている。「震災を経て大正元年の創刊当時の原点に戻りました」と武内氏は語る。震災前は、新聞は報道機関であって回覧板ではないという反発の気持ちが武内氏にはあったが、「震災直後は、被害状況や給水車がいつ来るのかなど、住民に必要な生活情報を提供する壁新聞はまさに回覧板のようでした」という。
石巻日日新聞が長年にわたって築き上げた住民との信頼関係は「住民とともに石巻で生活し、毎日のように顔を合わせ、共に考える。この日々の積み重ねが、住民と同じ思いを持ち、活発な情報交流を行うことにつながりました」。「震災当時、私たち記者も被災者と同じ経験をしたので、被災者が何を欲しいのかがよくわかりました。自分の家族の様子もわからないまま、記者として取材を続け、家に帰りたくても帰れない状態の中で、住民のために新聞を作り続けました」と武内氏は当時を振り返る。
石巻日日新聞は地域新聞ではあるが震災後は、最大規模の被災地である石巻がどのように復興するのかを全国に発信するために、ネット配信Hibi-netを始めたそうだ。武内氏は「これから首都圏直下型や南海トラフ地震が予想されるので、他の地方の人たちの参考になればと思います」と言う。そして、武内氏はタブレット端末による発信も将来の視野に入れているそうだ。石巻には高齢者が多く、字の小さい新聞は読みにくいため敬遠される。タブレットは字を拡大できるので、ニュースも読んでもらえると期待する。また真冬の震災時、多くの高齢者は閉め切った室内にいて、外で流れる津波警報のサイレンや防災無線のアナウンスが聞こえなかったため、今後は防災機能としても使えると言う。新たな取り組みにも一貫して「地域のため」という強い意志がある。
そして地域貢献にも力を入れる石巻日日新聞社では、スポーツを通して未来の担い手であるこどもたちを育てている。少年野球大会は半世紀以上も前から行われている。また、震災後多くの人に震災を知ってもらうために絆の駅「石巻NEWSee(ニューゼ ニュースの博物館の意味)」を開設した。誰でも無料で入館でき、震災当時の写真の展示や地域の人々と交流できる場として、武内氏は館長を務めている。
石巻に生まれ育つ若者たちにとって、石巻日日新聞は生活に身近だという。遠藤友さん(19)は、「地域のニュースをたくさん伝えてくれるので、全国紙とは全然ちがいます」。そして木村ひな子さん(15)は「地域の祭りに家族と行って、そのことが新聞にも載ったりするからとても身近」と答えた。武内氏はこの言葉を聞いて、嬉しいと笑みをこぼした。そして、作家井上ひさし氏の「自分の住んでいる地域の歴史を軽んじる地域に未来はない」という言葉を引用して「自分の住んでいるところを知らなくて日本のことや世界のことを語るな、と思いますよ」と言った。地域新聞は地元のことを知るために必要不可欠な存在だ。
坂本 光央(11)
あれから3年半がたったが、皆さんは3月11日のことをどれだけ覚えているだろうか。マグニチュード9.0、最大震度7の地震は東日本全体を襲い「東日本大震災」と名付けられた。また、この地震は大きな津波を引き起こし、三陸沿岸の市や町を流し去った。そんな多大な被害を受けた被災地の現在の状況と、そこに住んでいるこどもたちからこの被災地がどのように見えるのかを知るため、8月16日に宮城県石巻市と女川町を回り、石巻で活動しているキッズ・メディア・ステーションのこども記者に取材した。
最初に、石巻駅前から観光タクシーで石巻の日和山公園、石巻港、湊小学校、そして女川町地域医療センター(旧女川町立病院)を訪ねた。日和山公園は、石巻市街を一望できる高台で、ところどころに震災前の写真が掲示してあり、震災前と今でどこが変わってしまったのかが一目で分かるようになっている。その写真と今の様子を比べてみると、明らかに建物が減り、南浜地区や門脇地区にはほとんど建物がなく、旧北上川の中洲も、面積が小さくなっている。津波で流されてしまったのである。
石巻港には、津波で半壊した建物が未だに残っていて、とても痛々しかった。
湊小学校は、震災により2013年に閉校した湊第二小学校と統合していた。湊小学校の前には「湊第二小学校 沿革」「湊第二小学校閉校記念碑」などの石碑が建っていた。
女川町地域医療センターは海抜18メートルの高台にあった。それでも津波が押し寄せて、一階が2メートルほど浸水したそうだ。また、通る道の途中には、あちこちに「津波到達高」を示す看板があり、また狭い仮設住宅などがあって、実際に行ってみないと分からないことが多かった。
そして、一般社団法人キッズ・メディア・ステーションの記者たちに震災について話を聞いた。キッズ・メディア・ステーションは、「石巻日日こども新聞」を作っている団体である。
まず、地震が起きた時の気持ちを尋ねると、八重樫蓮君(石巻中学校1年)は、「その時(小学4年生)は学校にいたので、家族のことが心配でした」と語った。
石巻の町がこれからどのような町になって欲しいかについて聞くと、松林拓希君(蛇田中学校1年)は「震災後は津波の影響で、こどもたちの遊び場が屋内だけだったので、屋外に遊び場をたくさん作ってほしいです」。木村ひな子さん(門脇中学3年)は「震災後は商店街も閉まってあまり人がいないので、店が開いてもっと明るくなってほしいと思います」。八重樫蓮君は「郊外に店が集中して、みんなそっちに行ってしまい、中心市街地を賑やかにしてほしい」など、津波によって大きく変わった町の環境に対する希望が多かった。
また、今の石巻はみんなの理想の街に近づいているかどうかについて、酒井理子さん(門脇小学校6年)は、「近づいているとは思うけど、まだまだ理想の街とは思わない」。阿部文香さん(蛇田小学校6年)は「門脇小学校があった南浜地区は津波でほとんど流されてしまって今は雑草だらけで夜になると灯りがなくて暗いので、そこを明るくしてほしいです」と語り、まだまだ震災前の状態にさえ戻っていない様子がうかがえた。
被災地に対して、全国の人たちにして欲しいことは、「石巻のことをもっと目立たせてほしいし『石巻日日こども新聞』(http://kodomokisha.net/index.html)を読んで欲しい」(酒井さん)と、記者ならではの意見もあったが、「石巻に来て一緒に交流して欲しいです」(木村さん)。「今よりもっと観光客が増えてほしいし、震災のことをもっと色々な人に知ってもらいたい」(阿部さん)など、石巻を訪れてほしいという希望が多かった。
最後に、震災を通して全国の人に伝えたいことを聞いてみると、八重樫君は「石巻の人たちが(寝る時には懐中電灯を枕元に置くなど)備えているのは震災があったからなので、ないところでは備えをしてほしいです」。木村ひな子さんは「地震はいつ起きるかわからないし、津波がくるかもしれないから、備えはした方がいいと思います」。酒井さんは「地震が起きたら、どういうことをしなければならないかを考えて欲しい」など、震災を経験した人ならではの「備え」を話してくれた。
今回、石巻を訪ねて、ニュースやテレビのドキュメンタリーなどではわからない、被災地の空気を感じ、現地の人々に直接聞かないと分からないことはたくさんあると改めて感じた。 一人でも多くの人が現地に出向いて大地震や津波のことを知ることは、これから起きると予想されている首都圏直下型や南海トラフ地震などの被害を少しでも減らせるのではないかと思う。
Mayu Nagumo (16) and Sara Tomizawa (16), CE youth journalists, interviewed nearly 30 people from around the world during the 6th International Youth Media Summit held in Belgrade from August 1-12, 2011 in regard to The Great East Japan Earthquake. Both youth journalists experienced first hand the impact in Japan and were interested to find out the reactions of those from other countries. The majority interviewed was youth participants in the Summit and came from a variety of countries including America, Canada, France, Germany, Greece, Macedonia, Nigeria, Serbia, Spain, Sweden, and Turkey. A summary of the interviews follows the questions below.
How did you first hear about the earthquake? Through what media?
Nearly all the interviewees stated the internet followed by television. Many used social network sites to follow the news once hearing about the earthquake and tsunami. Basically multiple forms of media were involved.
How did your country report the news?
Once again nearly all the respondents used terminology such as disaster, devastating, catastrophic event followed by dangers and risks.
When did you talk about the news with your family and friends?
All the interviewees except one discussed it immediately with their families whether in-person or via telephone or computer. Many families were concerned about the Japanese and also their own families that lived near nuclear power plants in other countries.
What do you know about the Fukushima nuclear power plant incident?
Many realized how serious the situation was, that the Japanese government did not seem to be releasing all available information, and that the situation was still not stable at the time of our interviews.
Do you think that nuclear power plants should be abolished?
Although many respondents answered a resounding yes, quite a few people felt it was a difficult question to answer. The general belief was that although nuclear power plants are a danger to the environment, they are an important source of power. Until viable alternative sources are available, nuclear power plants are inevitable.
What new energy sources will we see in the future?
Mainly people mentioned existing energy sources that are not used today such as wind, solar, biomass, and hydro-power rather than new types of energy.