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第1回CE春季記者トレーニング 2002/3/29〜31 

去る3月29日から31日の3日間、CE記者トレーニングが行われました。23名の子ども記者たちが1日目にオリエンテーション、CEの取材方法、柴田鉄治さん(元朝日新聞社論説委員)の「ジャーナリズムについて」と「印象深かった取材について」のお話に続いて、4つのグループに分かれて実際に取材にでかけました。
グループ1は、「世界の子どもとユニセフの仕事」についてをユニセフ駐日事務所広報官の澤良世氏
グループ2は、「アフガン難民と国連の仕事」について国連難民高等弁務官事務所広報室の大川宝作氏
グループ3は、「人プロフィール」で木内孝CE理事長
グループ4は、「人プロフィール」で清水健CE広報・渉外担当スタッフ
をそれぞれインタビューしました。インタビューの記事は29日の午後10時が締め切りであったにもかかわらず、大半の記者が記事をCE事務所に送ってきました。翌日30日の午前中は、柴田さんが記者一人一人の記事を講評してくださいました。下記に記事の一部を紹介します。

世界の子どもとユニセフの仕事―ユニセフ駐日事務所を訪れて                                            原 怜也(12歳)

ユニセフ(国際連合児童基金)は、子供の権利の保障を主張し、子供が持って生まれた能力を十分に発揮するための機会を拡大することを任務として、国際連合総会によって設立されました。ユニセフは162の貧しい国に対して支援を行っています。職員の80%の人は現地で働いています。

ユニセフの主な仕事は、貧しい国の子ども達のために、毛布・テント・食料などを配布することや井戸を掘ること、ワクチンを打つことです。しかしユニセフの仕事は物の支援だけではありません。難民や少年兵となって傷ついた子供の心のケアをするのも、ユニセフの大事な仕事なのです。その方法としては、学校に行かせることや、絵を描かせることなどがあります。

現地で働いているユニセフ職員のほとんどは、普通の民家で暮らしています。場所によってはテントで暮らしています。職員が病気にかかることもあります。病気が軽い場合は現地で治します。重い場合は職員自身の国か一番近い国に送られます。

ユニセフの資金源は、大きく分けて2つの部分から成ります。1つは政府からの資金、もう1つは一般の人からの募金です。一般の人からの募金は、約35%を占めています。援助額の分け方には、3つの基準があります。1つ目は子供の数、2つ目は5才になるまでに死ぬ人の割合、3つ目は国民1人あたりのGNPです。これらの基準により、支援が必要か必要でないかを判断しています。

ユニセフは、今までやってきたことの他に新しいことを始めようとしています。その中で代表的なものは、女の人への教育、若い人達の政治への参加、エイズをなくすこと、戦争をなくすことなどです。これらを実現するためには、先進国の人達がユニセフに関心を持ち、もっと寄付することが大切です。

難民救援と国連の仕事―国連難民高等弁務 官事務所に聞く
                             岡本勇介(12歳)

今日は初めての取材。わくわくした気持ちと少し不安な気持ちでした。僕たちが取材したのは、国連大学の中にある国連難民高等弁務官事務所の大川さんです。アフガニスタンについてのことや、国連高等弁務官事務所の目的など色々なことを教えててもらいました。

まず、難民を援助する目的について聞きました。すると大川さんから、まず難民とは何か、またどの位いるのかについて教えてもらいました。難民とは自分の国で迫害を受け、他の国へ逃げた人のことを言い、また、難民は2,200万人ぐらいで、その内、約半分が18歳未満なのだそうです。援助についても教えてもらいました。援助の仕方は二つあって、1.他の国へ逃げた人を保護する 2.人間が生きることが出来る最低の物を送る、ということです。

また、緒方貞子さんのお話しもされました。緒方さんが高等弁務官を務める前迄は、国内難民を無視して国外に出た難民にしか援助をしていなかったのですが、緒方さんが務め始めてからは国内難民にも援助をするようになり、多くの命が助かっている、ということでした。

そして難民申請をしないと難民になれないという話しもありました。日本は難民をなかなか受け入れず、難民申請をするのは難しいそうです。

僕は、「アフガンに平和はも戻ってくるのですか」と聞きました。答えは「わからないが、今世界の国々でアフガンを平和にしようと努力しているので、もしかしたら平和になるかもしれない」ということでした。

「人プロフィール」清水 健―日本テレビ勤務を経てCEのボランティアとして子ども記者をサポート
                                中島千尋(16歳)

昭和30年代、日本テレビ社会部に入社。当時の放送業界は、今のように分業化が確立されていなかったため、時に一人でいくつもの役をこなさなければならなかった。

放送原稿を書き、容疑者を張り込み、中継を伝えた。三億円事件、ロッキード事件、あさま山荘事件・・・・いずれ劣らぬ昭和の大事件を様々に扱った。「大変でしたよ。十日間家に帰れなかったり」苦笑しながら話すその横顔は、しかし穏やかでやわらかい。

報道の道に踏み込んだきっかけとなったのは、大学時代に当時のインド首相であるネ―ル氏の講演を聞いたことに始まる。氏は反英派として活動していた為、獄中で時を過ごした時期があった。その獄中の彼が娘のインデラ・ガンディーに送った手紙―ヨーロッパから見た歴史と、アジアから見た歴史は違う―の事を知ったとき、まさに「目からウロコが落ちた。こうポロッと」そのとき初めて「"アジアからものを見る"という見方を知ったんです」。

大学では東洋史を学び、卒業後、日本テレビに入社。24年間ずっと社会部だった。上記したような、大変ハードな仕事に耐えてこられた訳を「根が楽天家だったからでしょうね」と笑う。その後管理部門を経て、定年を迎えた今は、CE(チルドレンズ・エクスプレス)のボランティアとして、子ども記者達をサポートしている。近況について尋ねると、「このお手伝いを始めてから、子ども達から教わった事って多いですよ」と答えてくれた。

その子供達の内の一人として、尋ねてみた。――今までの人生の中で、自分に一番大きな影響を与えた出会いは何ですか。「――やっぱり、ネール首相のお嬢さんへの手紙との出会いかな」――これからやりたい事などありますか――「定年を経た今、もう一度歴史を見つめなおしたい。実際に現地に行ったりしてね。インドとか――若い時とは、ものの見方がきっと違うはずだから」。

「人プロフィール」木内 孝 大嶋はなみ(15歳)

「 フューチャー500」の会長を務める66歳。「地球環境を守りたい」と考え、7年前アメリカコロラド州でこの非営利団体を設立した。

きっかけは、アメリカで働いていた11年前にある。「あなたの会社は熱帯雨林を伐採し、破壊している。やめて欲しい」と言われ、世界中を巡り、決心した。「フューチャー500」という名前は未来を考え、そして500の団体の協力を目指して付けた。現在の数は430。あと少しで達成できそうだ。「いやいやさせるのではなく、人をやる気にさせることが大切」と考えている。

木内さんはドイツのハンブルグ生まれ。イギリスで5歳まで過ごし、日本に。大学卒業後カナダ、アメリカへと渡った。現在も月に一度は海外で活動する国際派。一昨日までマレーシアに。来週にはアメリカへ講演に行く予定である。まさに東奔西走の暮らし振り。「熱帯雨林で学んだこと」という本も出版した。

そんな木内さんについたあだ名が“セブンイレブン“。朝7時から夜の11時まで働き詰めだそうです。そうすると、休日は自宅でゆっくり羽を伸ばすのか、と思いきや、趣味も多彩。「休めと言われるんだけどね」と笑う。

フルマラソン27回の経験を持ち、スカイダイビングにスキー。毎年富士山にも登る。やはり自然に常に関っているようだ。

「言葉に苦労したこともあるが、この仕事が生きがい。これからも続けたい」と話す。目標は「緑豊かな国にすること」。


2日目の午前中は、柴田さんが、記者がかいた記事の講評をしてくださり、午後は町田博祐さん(日本テレビカメラ記者)によるビデオ撮影の講義に続き、4グループに分かれて「表参道の春」を取材するために外に撮影にでかけました。

3日目の午前中は、町田さんが、前日のグループごとに撮影した「表参道の春」のビデオを講評してくださいました。午後はジャーナリスト・ミーティングを開き、ストーリー・アイディアを出した人が、それについて説明し、参加するジャーナリストを募りました。その後、前日までのトレーニングを吉田一美さんがビデオに撮影してくださり、30分に編集してくださったものを保護者と一緒に観賞しました。それから保護者会を開いて、今後の活動に必要なことを保護者に伝えました。