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2010年応募者のエッセイ  

「あたりまえ」 南雲 満友(14才)

こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう
あたりまえであることを。
お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。音が聞けて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろばない。あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる。夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。走り回れる
みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、みんな決して喜ばない
そのありがたさを知っているのは、
それをなくした人たちだけ なぜでしょう。あたりまえ。
これは若い医師がガンを発病し、かぎられた命を知り、家族へ書いた詩です。
私はこの詩を読んだとき、公民の発表授業の事を思い出しました。
地雷で手足を失った人、人身売買、子ども兵士、貧しくて今日を生きるのが精一杯の人。他にも世界には「あたりまえ」のことができない人がたくさんいます。しかし「あたりまえ」が幸せであることに、気づかずに過ごしている人が多いのではないかと思いました。「死にたい」などと普通に言ってしまう人もいます。
私が一番驚いたのは、お年玉の中からユニセフに募金をした時のパンフレットの写真の子ども達の笑顔です。この子達は一日一日を生きていくのが大変なのに、優しい目をしていました。この時、本当に貧しいのは、日本の子ども達かもしれないと思いました。
私は、今の「あたりまえ」に感謝し、世界の状況を取材し、メディアを通して発信していく事によって、「あたりまえ」という無意識を意識に変えていきたいと考えています。今の私たちにできる事は何か? 一人でできる事はかぎられています。しかし、今立ち上がり、世界のいろいろな出来事に関心を持って、私の一番いいと思うやりかたを探し、国際協力との接点を持っていきたいと思います。

「9.11」 持丸朋子(14才)

アメリカ同時多発テロ"9.11”から8年以上がたった。
当時小学1年生だった私。このときテレビで見たなどの記憶はない。
この事件でアメリカン航空11便が突入したのが世界貿易センタービルだ。
この世界貿易センタービルが再建設されるかの話し合いは滞ったままである。
今、そんな世界貿易センタービルの周りでデモが起こっている。
彼らは、世界貿易センタービルが再建設されないと、仕事が来ないのである。
世界貿易センタービルが再建設されることにより、お金が労働者に渡るのである。
この不況だからこそ、お金を使い労働者を雇い労働者にお金を渡し良い循環が出来るのはいいことだと思う。
しかし、このテロによりビジネスができるのはなんとも悲しい話である。
また、いつしか世界貿易センタービルが普通のビルと化してしまうのだろうか。

2008年応募者のエッセイ  

「私の思う、『生きる』ということ」   宮澤 結(15才)

 最近、私は「生きているってどういうことだろう」と思うことがあります。
三年ほど前に、テレビのドキュメンタリー番組で、私はアシュリー・へギさんの事を知りました。彼女は生後九ヶ月のときに、800万人に1人の割合で生まれるプロジェリアという病気だと診断されました。それは普通の人の10倍の速さで老化が進行し、まだ治療法の見つかっていない病気だそうです。アシュリーさんは激しい運動はもちろん、普通の人より出来ないことは多いですが、明るく前向きに生きる姿に小学生ながらも感動したことを今でも覚えています。さらにびっくりしたことは、彼女は私と年がそんなに変わらないのに、命についてちゃんと向き合って考えている、ということです。生きている年数に何ら変わりはないのに、命の重みやありがたさを素直に感じている彼女の姿がとても素敵でキラキラしていて、私は一種の衝撃を受けました。
それなのに今の日本では、いじめなどで自らの命を投げ捨ててしまう自殺者は年々増加しているし、心無い殺人事件は後を絶たず、悲しいニュースを聞かない日はない、というのが現状です。先日、土浦で起きた連続殺人事件においては、私の通っている学校と割と近い場所だったので、その近くに住んでいた友人は恐怖から怖い夢を見たそうです。このような事件が身近に感じられるのは、とても悲しく思います。
また、テレビのバラエティー番組などで、「死ね」という言葉をたびたび耳にします。若い人々の間でも「死」という言葉を簡単に使いますが、そんな簡単に口にしていいものなのか、と疑問に思います。なんだか世の中全体が、命に対して希薄なのではないか、と思います。だからリストカットなどの新しい言葉が誕生し、自殺志願者も増加してしまうのではないでしょうか。
私にとって“生きる”とは、毎日学校に行って部活をして、家に帰ったらすぐに寝る。そんな日々の繰り返しで、忙しくて大変だけれど、たまに夕飯に出る大好物のクリームシチューで嬉しくなる。テストの成績がちょっと上がって嬉しくなる。そんなささいな幸せが、明日も頑張るエネルギーを作っていくのだと思います。しかしアシュリーさんは、常に今という時間を精一杯生きなくてはいけません。“生”についての捉え方は人によって様々です。
生きたいと思っても生きられない人がいる中で、生きているのに疲れた、そんな理由で命を投げ捨てる人もいる。なんて理不尽な世の中なんだろう、と思います。
私自身ももっと命について真剣に考えていくべきだし、沢山の人々に命の重さを知ってもらいたいと思いま
した。

2004年応募者のエッセイ  

「愛か、お金か」 三崎 友衣奈(12才)

フセイン元大統領が数週間前、アメリカの兵士たちの手によって抱束された。私は、フセイン元大統領の第二婦人がフセインがどこに隠れているのかを、教えたと聞いた。しかも、その第二夫人は、フセインの隠れ家を教えたことによってお金をもらったらしい。
最初に抱束されたと聞いたときは、第二婦人がそんなことをするということに驚いた。私は隠れ家を言うべきではなかったと思う。もし私がフセイン元大統領の妻だったら、私も家族の一員なのだから、どこにいるかなど、言わなかっただろう。

このニュースで、私は学校の授業でやった討論会のことを思い出した。議題は、「愛か、お金か」だった。思った通り、"お金"のグループの人数の方が多かった。彼らは、討論会でこう言った。「お金さえあれば、なんでもできる」と。それに対して、"愛"グループは、「愛はお金では買えない」と反論した。議論を重ねていくうちに、"愛"グループからのすばらしい意見が出てきた。それは、「愛の中に家族がいる」というものだった。短い言葉だが、とても説得力のある意見だった。

家族が貧しくても、愛があれば温かくなると思う。もし私が大金持ちでも、愛がなければ、もっているお金で何でも買って、寂しい気持ちを紛らわすことが出来るだろう。だが、これは私にとっては無意味なことに思える。愛はお金では買えない。これを聞いて、「お金で買えないものは、愛だけしかない」と言う人もいると思う。けれど私は、こう言いたい。「愛は、人々の人生を左右するほど重要で、人生にとって大切なものである」

2003年応募者のエッセイ

「ホントの大人」            三崎令雄 (11才)

2003年1月13日、横浜市では2万4000人が成人式を迎えた。荒れる成人式が毎年クローズアップされる中、横浜市でも当日小さなもみあいがあった。今年は逮捕された新成人はいなかったが、去年は7人も新成人が逮捕された。

一生に一度しかない成人式をただ「めだちたい」というだけで台無しする新成人はもったいないと思う。これから大人というのに、他の人に迷惑ばかりかけているので、この人たちは、まだ成人式の意味を知っていないことになる。新成人が20歳なった今、大人としての責任をとらなくてはいけない。

僕はこんな成人式を迎えたくない。僕が成人式を迎える時は、大人としての責任の重大さを理解して、気持ちの入替りとして、成人式を迎えたいと思う。

僕は4年生の時に学校で2分の1成人式をした。それは、20歳の半分である10歳を祝うことだ。2分の1成人式は、大事な1つの経験になったと思う。それは、大人にむかって一歩進んだことだ。つまり、一つ一つの積み重ねが自分を大人にしていくと思う。

成人式を迎えた人も一歩ずつ進んできて大人になった。20歳は大人になった証拠のはずだが、この新成人たちがホントに大人になるのはいつだろうか。

「自殺してしまう人達」         佐藤 美里菜(10才)

最近、ニュースで「集団自殺」という言葉をよく見ます。それは死ぬことを目的にインターネットで知り合い自殺していくということらしい。インターネットはとても便利だけれど、怖い面もある。自殺をするために知り合って何も良いことは無いと思います。私は集団自殺に反対です。自殺者を募集したり死にたがる人はかわいそうな人達で、苦しい事があっても「がんばろう」という気持ちをもてる人は幸せな人達だと思います。一度しかない人生を楽しく明るく過ごすことができたらすばらしいと思います。「自殺」ということは一つしかない命を自分でなくす行為です。私はそんなことを絶対にしたくないし、両親が悲しんだりいろいろな人達に迷惑もかかります。

私の学校はカトリックの学校で、宗教の時間に命の大切さを教えてもらいました。神様はみんなに大切な命を与え、それぞれの人は何か役割を与えられて生きていると聞きました。一人一人何か才能も持っているだろうし、その才能を生かして生きていかなければもったいないと思います。

死んでいく人達は多分これから先の夢を見ることができず、すべてをあきらめて死んでしまうのでしょうか。私はどんなこともあきらめず、頑張れる強い大人になりたいと思います。また、今のように自殺したり死ぬことを募集したりする人がいない明るい人がいっぱいの世界になれるよう皆で何かできたらいいなと思いました 。

「スローフード」              藤原沙来 (13才)

59円のハンバーグ。安い、早いだけでひきつけられるファーストフード。その逆の、材料からこだわり、心をこめて作りあげるスローフード。あなたはどちらを選びますか?私の場合は、スローフード。なぜなら自然の野菜を見て、触って、味わうことができるのは、材料からこだわり心を込めて手間ひまかけて作ることで分かるからです。スローフードとは、その土地その家庭ならではの味の多様性を大切にする運動です。食べ物を通じて自分と家族、自分と社会、自分と自然の関係をゆっくり問い直すことなのです。

私は学校の家庭科の宿題であさりのチャウダーを作りました。その時、農協で新鮮で、旬な野菜を選び、どんな味付けにするかを考えて作りました。野菜は自分で皮をむき、痛めて作り上げていきました。これこそスローフードだと実感しました。電子レンジでチンして、ただ食べて終わりという食べ方ではなく、材料を選び、時間をかけて気持ちのこもったものを作ることがスローフードの原点だと思ったからです。

今の日本人は、安いということだけにこだわってしまっていて、スローフードの良い所を知ろうとしない人がいます。確かに、安くて早いことは良いことだとは思いますが、おいしい材料でおいしい物を作ること、それを食べることにうれしさを感じたりするのではないでしょうか。私にとって、おいしい材料で手間ひまかけて心を込めて作るものが食べ物でありそれは、スローフードでもあるのす。

日本は豊かな自然に恵まれています。昔からのやり方で作っていくものこそスローフードではないかと思いました。食べ物以外で伝統工芸品など、日本独特なやり方で今まで受けつがれているものもスローライフにつながっていくのだと思います。外国から渡ってきて、そのやり方を同じように利用しているファーストフードとは違い、早くて便利ではないけれども、日本独自でそれぞれの人の作り方の違いがあることがスローライフなのです。

私の行っていた幼稚園では、かき、さつまいも、お米などたくさんの食べ物を作っていた。育てることに興味を持ち、泥だらけになって苗を植えたお米は、毎日のように、ほんの少ししか大きくなっていないがどのくらい伸びたかを見るのが楽しみでもありました。最初は土で汚れてしまっていやだと思っていましたが、苗を植えることの楽しみが分かると何本も苗を植えました。自然でできた植物というのは、人間にエネルギーを与えてくれるような存在でもあるような気がしました。私の家は、農協で野菜を買い、生協で調達しています。私は、そういう環境で育ってきていることに対して、誇りを感じています。